耽典籍:女、黒人、踊り子・・、詩というウィルスの現代日本への感染症状。『鏡のなかのボードレール』くぼたのぞみ(共和国)

美しく、深く織りなす本を読んだ。

 

『鏡のなかのボードレール』くぼたのぞみ(共和国)。

鏡のなかのボードレール (境界の文学)

鏡のなかのボードレール (境界の文学)

 

言葉はウィルスとして、人の脳に作用し、ものの見方を変え、行いを変え、在り方を変える。詩はウィルスのカプセル剤で、時を超え場所を超えて、たくさんの人に作用し、世界を変える。

 

文学は、何の役にも立たないという人がいる。それでも文学にかかわる人は、言葉のカプセル剤が世界に作用することを信じて詩を読み、学問としてその感染症状を探る。

 

なかには善きものとはいえないウィルスも、感染もある。

 

女、黒人、踊り子、詩人のミューズ、ファムファタル。ジャンヌ・デュヴァルという人を、見るための言葉はたくさんあって、どれもが自ら発せられた言葉ではない。

 

ものを見るということは欲望の発露である。対象をこのように見たい、そのことで自身の安楽を得たいという欲望。それは個人の欲望のときも、集団の欲望のときも、時代の欲望のときもある。

 

男、白人、フランス人、19世紀の人、詩人のシャルル・ボードレールがジャンヌ・デュヴァルを見て、愛で、記した、『悪の華』。たくさんの欲望が言葉となって甘美なカプセルに詰められている。

 

オリエンタリズム植民地主義、女性蔑視、職業差別、人種差別、調合された欲望は十重二十重。

 

そんなカプセル剤を、近代国家へと向かう日本が受容する。男たち、東洋人、日本人、19世紀~20世紀の人々、翻訳者(詩人・文学者・作家)の上田敏堀口大学西脇順三郎永井荷風らが、『悪の華』を読み、訳し、ボードレールの視線に憑依してジャンヌ・デュヴァルを見て、語る。その『悪の華』論は次代に読み継がれる。

 

時が下り現代。今の日本人には、ジャンヌ・デュヴァルをボードレールが見て紡いだ言葉のカプセル剤の、どのような感染症状が顕れているか。

 

そんなことを、解き明かした本。「人種主義を内面化した日本男性とそれを暗黙裡に支えてきた日本女性の意識の遺産。」という一文が重い。

 

繊細なバランスの上に立ちながら、見るものたちの織りなす視線を摘出し、その欲望を暴き揺さぶる本書は、推理小説じみて小気味よくも、ものを見るために人が寄って立つ前提段階をガラガラと崩し続ける。

 

なので、本書の感想は深く織りなす多くの人と時代の欲望が崩されていく美しくも流砂のような本だ、というしかない。下手に評すれば、何かを見たという欲望の発露をしたことになり、瞬間に流砂に飲まれる。

 

素晴らしい本だと思っても、こんなに感想を書くのが難しい本もない。しかもベンヤミンクッツェーまで射程にいれており、手に負えない。

 

読んでもらってともに流砂に飲まれてもらうしかないと思いつつ、印象的な個所を長めに引用。

 

「美しい響きをもち、豊かなイメージを喚起する詩篇を読むと、その響きの美しさゆえに、ことばのもつ魅力ゆえに、逆に、熱帯の国へのあこがれ、遠い南の島へのあこがれ、異国の、非西欧という観念としての「オリエント」を作り出した西欧近代、とついつい乱暴にくくってしまいたい衝動がわいてくるのを抑えきれない。その影となった者たちの存在に思いをはせることなく。」

 

「フランスという国の、ときのエリート層から落ちこぼれる白人男性詩人が、おもにアフリカ系女性を欲望の対象に描き出した詩篇群、それを噛み砕き、飲み込もうとしたとき若き日本の詩人たちは、みずからのエロスになにを許したのだろう。」

 

「拡大戦争のさなか、従軍慰安婦をめぐる日本男性の経験とその歴史認識(の欠如)がどのように尾を引いて、いまも深く、しつこく残っているか。アフリカ女性への欲望をぺ時の上で身をよじるようにして架空体験していた日本語読者たちの欲望が向かっていった先に思いをはせることは、この問題を考えるための鍵になりはしないか。それは西欧近代の思想や文化の内部に深く染み込んでいた人種主義をもまた、日本人が内面化した事実を考えることに繋がると思うのだが。」

 

くり返す。「人種主義を内面化した日本男性とそれを暗黙裡に支えてきた日本女性の意識の遺産。」という一文が重い。

映画「月光」で思いおこす当事者性について

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しあわせなみださんの「月光」鑑賞会に参加してから、感想めいたものをまとめようと思いつつ半月がたち、東京での上映は今週末までとなってしまった。

 

何かがひっかかって、所感がまとまらない。

 

良い映画でした。扱うテーマを鑑みて語弊があるかもしれないけど、面白かった。男性監督が描く性暴力被害の映画、というセンセーショナルな紹介にとどまらず、もっと広がりがあり、上っ面ではない社会への課題提起がたくさんあった。

 

エキセントリックな人が刺激的に性暴力を描いた映画ではなく、真摯な人がリアリティをもって人と人との関わりの困難さを描いた映画、だと思う。

 

さらに映画的な、色合いや音、メタファーとなる小物などのしかけも充分に盛り込まれていて、物語性が豊かで、美しい。どなた様もぜひ、とは言えないけど、見てよかったと思う映画なはず。

 

・・・と、いうのが一般論的な「月光」の感想だけど、何かひっかかる。

 

よく考えてみたところ、自分の中の当事者性が刺激されているのかな、と思った。

 

丁寧にリアリティをもって描かれている映画なので、性暴力やDVの被害者(さらには加害者)や、家族との関わりに困難をもつ人などは、自身の経験に照らしてピンとくるシーンがあり、避けたいことに触れられた気がしたり、蓋していたものが疼いてしまったりするのだろう。

 

僕は社会逃避というか対人恐怖の当事者だった。キャッチーにいうと、中退ニート。物理的にはひきこもらなかったけど、精神的ひきこもり。

 

 人と接するのが嫌で面倒で、特に楽しげな人の集まりが苦痛で、社会に価値を感じなくて、厭世をこじらせて東大をドロップアウトして、その後も失意と嫉妬に苛まれて人から連絡が来ることが恐怖で、人とコミュニケーションをとらないといけない場から逃げ続けた。

 

とにかく、人と社会を怨嗟した。

 

そのくせ、ひきこもって隠遁しきる踏ん切りがつかず、何となく学校に通ったり、小銭稼ぎをしたり、人ゴミの街中を毎日さまよい歩いた。

 

映画では、性暴力被害にあった後の主人公がかかってくる電話に極度におびえたり(でも結局電話に出ちゃったり)、道をふらふら歩いてフラッシュバックで気絶したりする様子が描かれているけど、そこら辺がものすごくピンときて刺さる。

 

人から接触されることの恐怖が、目の前に立ち上ってくるみたいだった。

 

もちろん性暴力被害と、自我がこじれた末の中退ニートとはレベルが違うけど、抱えた修羅は近しい。そんな修羅の記憶が呼び覚まされて、ひっかかって、映画の所感がまとまらなかったのかな、と思う。

 

それだけ、リアリティのある、地に足のついた映画なのだろう。

 

映画の感想としては、僕は自分が大学中退して社会から逃避した過去と、きちんと向き合っていないんじゃないかと思った、ということになろうか。

 

今は人にまみれて生きて、人と社会についての仕事をし続けているけど、そのモチベーションは過去の当事者性からの反動も大きいだろうし、蓋をとって仔細に眺めることができる状態になっていると思う。

 

きちんと、自分自身の当事者性について考えるべきか。

 

という、極私的な感想なのだけれど、「月光」はこのような一人ひとり異なる当事者性を呼び起こして向き合わさせる映画なのだと思う。

 

しあわせなみださんの鑑賞会のように、数人で見て、どこが刺さったのかをシェアしあうと、それぞれのコアがわかって面白い、かもしれない。。

 

最後に、EDAYA的には、「こんなところに日本人」でフィリピン北ルソン島カリンガの村にまできてくださった美保純さんが、複雑で、意味合いの深い役を演じていらしているので、注目です。

 

改めて、卜沢さんに感謝。

www3.nhk.or.jp

 

耽典籍:「撮るもの」自身の物語。『アストリット・キルヒヘア ビートルズが愛した女』小松成美さん(角川書店)

「撮るもの」が「撮られるもの」を撮るなかで、「撮るもの」自身はどのような物語を紡ごうとしているのか。

 

この本は何について書かれた本なのだろうと、読みながらずっと思っていた。アストリット・キルヒヘアという人の物語では、とどまらないと思う。ビートルズの軌跡でも、ないと思う。

 

芸術が時代の精神であるならば、時代の奔流を創ってしまう芸術家がいて、創造に引き寄せられて奔流に呑まれてしまう芸術家がいる。スターが生まれ、影の人物や堕ちた才能が生まれるが、みな時代と芸術に人生を簒奪された人たちに見える。そんな、芸術と人との関わりを描いた本なのではないか。

 

先日、原田マハ著『暗幕のゲルニカ』を読んだ。戦争と芸術、芸術とそれを護ろうとする人々など、様々な織り糸のある小説だが、主人公の一人にドラ・マールが据えられている。自身も画家・写真家であるが、ピカソの愛人となり、その絵画のモデルになり、ゲルニカの誕生を見届け、その制作の様子を撮影した写真によって知られるドラ・マール。

 

フィクションとノンフィクションを同列にするのは失礼なのかもしれないが、女性で、写真家で、芸術の創造に立ち会いそれを撮り、その「撮られるもの」によって記憶され、時に「撮られるもの」を愛し、「撮るもの」としての人生を歪ませた類例として、ドラ・マールと、アストリット・キルヒヘアを比較したくなるのは、間違ってはいないと思う。

 

「撮るもの」が撮らなくなってからの人生は長い。ドラ・マールは97年まで生き、アストリット・キルヒヘアも健在なようである。「撮られるもの」がその死まで追いかけられ記憶されるのに比して、「撮るもの」はその「撮る」行為の瞬間だけ記憶され、その後は忘れられる。でも元「撮るもの」の自身の人生は続き、さまざまな物語が紡がれる。

 

彼女らが撮り続けたら、いつまで生きたのかと考えてしまう。ロバート・キャパは「撮るもの」であり続けようとし、「撮られるもの」=戦争から逃れられず、緩慢な自殺のようにインドシナへ行った。撮影の対象が異なるものの、「撮るもの」であることを辞めたことで人生は長くなるのか。

 

閑話休題、本書で最も印象的なのは、スチュアート・サトクリフが死に向かうなかでの創作について。

 

「極端に明るく華やかな絵の具をキャンバスにぶつけ、派手な絵を描きつづけた。だが、やがて、絵の具の色はひとつずつ減っていった。彼の精神が研ぎ澄まされるとともに、暗い色を好んで使うようになっていった。」

 

精神性を増すと黒に行くという芸術神話は、やはり強い。スチュアート・サトクリフの絵はWebでしか見たことがないが、鮮やかで、人の内面を抉ったような絵が多い。それが死霊に追われるなかで色数を減らしていったのなら、その過程の現物を見てみたい。色など所詮は空であると、スチュアート・サトクリフは悟っていったのだろうか。

 

芸術と人という読み方だけではなく、歴史ドキュメンタリーとしても面白い。激動の20世紀、近代化の波に乗った事業の成功やナチス時代・敗戦後の苦難など、キルヒヘア家の栄枯盛衰はプチ『ブッデンブローク家の人々』として読みごたえ充分。

 

最後に、ジョージ・ハリスンは不思議な人だと思った。ビートルズの可愛い最年少、アストリット・キルヒヘアの素直な弟分として描かれる、そして本当にそういう人物だったのだろう「静かなるビートル」。歪んだ人たちが己の業の行く末を求め悶えるなかで、一人ジョージ・ハリスンは真っ当で真っ当で、真っ当すぎてまるで化け物みたいだ。そう感じるのは、穿った見方だろうか。異常人に囲まれて、なお真っ直ぐでいられる人の異常性は、実はかなりのものだと思う。

 

この本は、変友・武田真優子氏から「読め!」と言われて読んだ。465ページもある本ながら、1日で(正味5時間くらいで)読み切ってしまい、ハンブルグの街角を高速再生したような幻視にしばらくとらわれたのだけれど、「いったい何について書かれた本か?」という疑問にとらわれ、読後録をまとめるのに時間を要した。食べやすく美味なのに消化に困る一冊。

 

『アストリット・キルヒヘア ビートルズが愛した女』小松成美さん(角川書店)。

アストリット・キルヒヘア ビートルズが愛した女

アストリット・キルヒヘア ビートルズが愛した女

 

 

 

 

 

雨をうたった歌が好き

梅雨といえば『いま、会いにゆきます』が思いうかぶが、物語のなかで降る雨は、愛する人たちを包み込む慈しみの雨なのだろうかと、僕は疑問をおぼえてしまう。

 

雨は、一人で濡れるものだ。

 

ラカン鏡像段階という説がある。どこまでが自分の身体か判然としない幼児が、鏡に映り動く自身を見て、ここまでが自分なのだと知る。自己の同一性を得る過程だが、雨もこの鏡像と同じではないか。

 

雨は、一人でしか濡れることができない。

 

愛する人とともにいても、雨に濡れて冷えゆく身体は自分しか感じ取れない。愛する人をどれほど抱きよせても、肌に雨粒のあたる感触も、奪われる体温も、その人の分を感じることはできない。しょせん人間の認識など、自分の身体に限られたものであると知らされる。

 

雨に濡れると、人はここまでが自分なのだと知る。恋人でも、親子でも、友でも、一緒に雨に濡れることはできない。雨は、一人でしか濡れることができない。

 

いま、会いにゆきます』は、家族の再生の物語というより、解体の物語だと思う。言いかえれば、自立の物語。そこに降る雨は、愛する人たちを柔らかく包み込むように見せながら、一人ひとりを切り分け、個として立たせる雨。慈しみではなく、孤独の雨。

 

諦めの雨もある。

 

天から降るものに、そしていかようにも形を変えるものに、抗うことはできない。雨が降れば、天気予報に八つ当たりをしながらも、しょうがないなと傘をさすしかない。

 

その受容は、小さな諦めとなる。大きなものを、例えば運命を、しょうがないなと受け入れることを、諦めの雨は教えてくれる。

 

しかし、雨は孤独と諦めだけではない。生命力の雨もある。

 

人間もまた生き物であるなら、水に生かされている。雨に濡れ、一人で肩を落としているときでも、水の流れる躍動に、どこか生命の芽吹きを感じるはずだ。

 

孤独で、何かを諦めきってずぶ濡れになっても、それでも、という生命力を、雨は与えてくれるような気がする。生きる業、ともいえるかもしれない。そんな雨もある。

 

 雨をうたった歌は多い。

 

雨というそのものズバリな題だったり、雨音だったり、激しい雨だったり、傘だったり、傘がなかったり。たくさんの雨の歌がうたわれている。

 

それらは、雨の孤独と、諦めと、それでもの生きる業を感じさせてくれて、好きなものが多い。雨の歌ばかりを集めたCDがあったら、欲しいかもな、と思う。

 

梅雨どきに、色うつろう紫陽花を眺めながら、誰かが静かにうたう雨の歌をきけたりしたら、贅沢なのにな、と夢想したり、しなかったり。

 

ちなみに、『いま、会いにゆきます』は梅雨の物語だが、印象的な花は紫陽花ではない。向日葵だと思う。そのことは、面白いと思う。

 

向日葵は、食べられる。油もとれる。だから一面の向日葵畑ができる。紫陽花には毒があるらしい。黄色い花を太陽の方向にみんなでニコニコ向けている向日葵と、揺らぐ色で雨に濡れる毒持つ紫陽花と、さて、どちらが好みか。

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耽典籍:女性活躍推進とラナ・プラザ。『990円のジーンズがつくられるのはなぜ?』長田華子(合同出版)

著者の方にお会いしたいな、というのが感想で、それはこういった問題を地に足をつけて研究している年齢の近い研究者の方がいて嬉しかったから、でもあるが、茨城大学の先生だから、という理由が大きい。

 

茨城は僕の出身地で、茨城大学は父母の通った大学で、NPOや社会事業は不毛の地なのだけど、そんな所で研究と教育を続けてくださっていることに感謝をしたくなった。

 

・・・という個人的感想はさておき、良著だと思う。若い人や、こういった問題に興味を持ち始めた人にはもちろん、フェアトレードエシカルの領域で活動をしてきた人にもお勧め。全体像が、ニュートラルな視点でしっかりとまとまっている。

 

各章の構成がいいな、と思った。初めにバングラデシュの縫製工場で働く女性たちの個に焦点を当て、次に彼女たちの背景となる社会事情を見て、一旦俯瞰的に国の成り立ちや歴史を眺め、そこから核心に近づいて産業の話が来て、縫製工場の労働環境について、ラナ・プラザの崩落に至り、また視座を変えて日本側から問題を見て、転じてベトナムや中国の実態にも触れ、対して世界が問題をどうとらえて動いているかを伝え、最後に私たちが何をできるかで終わる。

 

一つ一つの事実を押さえながら、多角的に問題を見られるようになっていて分かりやすく、工夫されている。こういった本だと、ファストファッションを製造販売するグローバル企業を非難する展開もあるけど、本書はそういったレッテルは貼らず、企業側の対応も触れていて、そのニュートラルさにも好感が持てた。

 

特に第6章「ラナ・プラザ崩落事故は、どのようにつぐなわれたか?」という段落の前後は良し悪しの判断がつかないトピックが多く、考えさせられる。

 

本書を読んで一番考えてしまったのは、女性が「力をつけて」いくための仕事、夫や家族からの自由を求めるための仕事として、縫製工場があったということ。

 

「工場での仕事は、従来の家政婦や建築現場の労働とは異なるものでした。それは、毎月決まった額の給料をもらえ、決まった労働時間で働き、休日があり、さらには同じ境遇の女性たちといっしょに同じ場所で働くことができるというものでした。女性たちにとって同じ境遇の女性たちとともに働くということは、「力をつける」うえでとても大切なことでした。」

 

「縫製工場での労働も過酷です。それでもバングラデシュの貧しい階層の女性たちが縫製工場で働きつづけたいと思うのは、働くことによって女性たちがさまざまな自由を得ているからです。」

 

女性活躍推進の先に、ラナ・プラザがあったということなのか。

 

 僕はEDAYAという、マイノリティのエンパワーメントを目指す活動に関わり続けているが、エンパワーメントの先が縫製工場という帰結があるのだろうか?

 

ふと思えば、『女工哀史』だって女性がエンパワーメントされた帰結なのかもしれない。でもそれでいいのかな?よくないよな。。考えると頭がぐるぐるしてしまう。

 

加えて考えてしまうのが、縫製工場で労働の対比として出てくる家政婦(家事労働者)について。日本でも「外国人家事支援人材」の受け入れが始まった。フィリピン人とかの家政婦さん。

 

住み込みの家政婦と、家事代行サービスでは結構異なることも多いと思うけど、家事労働者について、やはりちゃんと知らないとな、、と思う。

 

・・・という、シンプルにまとまっているけどいろいろと考えてしまう本でした。若い方に読んでもらって感想、気になる点などを聞きたい。

 

『990円のジーンズがつくられるのはなぜ?』長田華子(合同出版)。

990円のジーンズがつくられるのはなぜ?: ファストファッションの工場で起こっていること

990円のジーンズがつくられるのはなぜ?: ファストファッションの工場で起こっていること

 

 

パフェとダイバーシティと人材育成(とホラクラシー)

パフェは難しい。

 

そもそも、パフェについて真面目に考えたことがある人はどれほどいるのだろう。人生で30分以上パフェについて考えたことがある、という人は是非名乗り出てほしい。

 

ともあれ、パフェは難しい。

 

なぜパフェは難しいか。それは多様性と時間経過という二つのテーマを抱えた食べ物だからである。

 

器の形状が定義の核をなし、中に何が入っていても自由。ただし、多種多様なものが入っていることが求められる。答えはない。もはや闇鍋と同レベルといえる。それがパフェ。

 

パフェと対峙する人は、まずそれがどのような多様なチームとなっているのかに着目する。フルーツ、生クリーム、アイス、ウエハース、チョコレート、シリアル、スポンジ、ゼリーその他もろもろetc・・・・。

 

この採用から難しい。何を何種類集めるか。

 

そしてチーム作り。通常パフェは容器の上方にスターが来る。高級感のあるフルーツなど。しかしどれほどのフルーツでも、一品では引き立たない。スターを支えるために何のアイスを配置するのか、ウエハースを突き刺すかポッキーにするか。配属に悩む。

 

さらに、チームにタレントは複数欲しい。シリアルの悪口を言うわけではないが、ダメなパフェというのは冒頭にスターのフルーツと補佐役のクリームが乗っていて、あとはシリアルだけというチームだろう。龍頭蛇尾すぎる。メッシと10人の高校生では、J2チームにも勝てない。中段を支えるタレントとして、ババロアなどの加入が要される。

 

では、フルーツは最高級のものにしても、アイスやババロアも最高級なものにできるか。クオリティは均一に保てるのか。パフェを供するお店の代表例はフルーツパーラーだろうが、パーラーがあくまで果物屋である場合、フルーツのクオリティは高くてもアイスは業務用品レベルということがある。シリアルとか、100円ショップだろうと思うことがある。

 

加えて、チームのビジョンを貫かなければいけない。イチゴのパフェを作るとき、どれほど素晴らしい抹茶ババロアがあったとしてもそれは一員に加えられないのだ。とりあえず優れたものをバスに乗せて、行先を後から考えていたら、そのパフェは完全に闇鍋になってしまう。イチゴパフェというビジョンに反するものは、去らせるしかない。

 

全員がピカピカの経歴でなくても、チームとして遜色ないレベルは保ちながら、ビジョンへのコミットを絶対としつつ、役割に応じた多様な甘味を集めるというチームビルディングの問題が、パフェにはつきまとう。

 

集められた甘味は、それぞれの持ち味を発揮しつつ、パフェとしての統一感を醸成しなければならない。マンゴーが、「俺はゼリーとシリアルと一緒にスプーンに乗るのはイヤだな」とか言うのは許されない。違いを認めつつ協力してもらわねば。

 

ダイバーシティですよ。

 

パフェをより難しくするのが、時間経過である。

 

パフェを一瞬で食べ終える人はいない。あの縦に長い容器は、相応の時間をかけることが前提となる。とすると、甘味は卓上にあらわれた状態と、食べ進められて終盤の状態とで姿を変える。

 

具体的にいえば、アイスとか溶ける。そして容器の下の方のシリアルとかスポンジがぐじゃぐじゃになる。こうなった時、もう残しちゃおうかなと思うけど惰性で食べるパフェか、底の方も結構美味しいじゃんと思わせるパフェかで大きく評価が分かれる。

 

良いパフェは、時間経過とともに甘味が育つ。ただの数合わせ、将棋の歩であったシリアルが、アイスやジャムなどを吸って成金になったりする。だが偶然にそうなったわけではなく、シリアルの下にゼリーの層を作ってぐじゃぐじゃ化をセーブしたりなど工夫がある。

 

すなわち、当初はさほどのタレントでなかった甘味が、時間経過とともにいっぱしに育つように設計するのだ。

 

パフェではスター性のあるタレントは上に位置する。下の方が食べられるときには、スターはもういない。そんな時になっても、チームの若手が育ってビジョンを保ち続けられるのか。パフェと対峙する人は、その点も厳しく見なければならない。

 

人材育成ですよ。

 

おそらく、パフェを巡る切り口はもっとあるだろう。わかることは、パフェは多様性と時間経過を前提とした答えのない食べ物である、ということ。実に難しい。

 

だから僕はパフェについて考えることは、とても大切なんじゃないかと思う。特に企業で、ダイバーシティや人材育成を担当しているみなさんは、是非パフェについて考えるべきではないか、と提言する。

 

というか、ダイバーシティ関係者で飲み会などしていないで、パフェを食べる会を行うべきだと、断固として主張するものである。

 

 

・・・なんてよしなしごとを、Hanakoのパフェ特集を読みながら考えたのです。パフェ、見かけると注文しちゃうんですけど、コレ!みたいな決定打に出会わないんですよね。

 

Hanako片手に食べ歩くしかないかな・・とか。

 

余談:かきごおりはパフェなのか、あんみつはパフェなのか、について議論したい。僕はかきごおりはパフェではなく、あんみつはパフェであると思う。理由は、かきごおりは中心が氷であるが、あんみつは中心がどこかわからないから。どこが中心かわからないホラクラシー的食べ物であることがパフェの条件な気がする。

 

Hanako (ハナコ) 2016年 6月9日号 No.1111 [雑誌]

Hanako (ハナコ) 2016年 6月9日号 No.1111 [雑誌]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

耽典籍:文化が平和を作ることは叶わない。ペンは剣に敵わない。それでも。『暗幕のゲルニカ』原田マハ(新潮社)

「ペンは剣よりも強し」は、僕を育てた学校の校章で、同窓の諸先輩後輩も胸に刻んでいる訓戒だと思う。

 

が、その解釈は人それぞれに違っているのではないか。

 

ある人は、高橋是清のように国家の武力・戦争を文治によって引き留めようという覚悟と読むかもしれない。ある人は、暴力を抑える法や契約の理性と読むかもしれない。ある人は、ジャーナリズムの筆が権力に対抗する気概と読むかもしれない。

 

僕は、文学が争いのない社会を作ること、と読んでいた。文化が、平和を作るという願いだと。

 

ピカソゲルニカは、第二次世界大戦もスペインの独裁も止めることはできなかったし、ピカソが芸術家としてパリに留まり続けることは戦争の終結を早めもしなかった。ゲルニカが世界中の人に有名になった21世紀がきても、人の集団は他の人の集団を理解せず、憎み、殺して、戦争を続ける。

 

文化が平和を作ることは叶わない。ペンは剣に敵わない。

 

それでも・・、と足掻く人が、それでも沢山いて、そんな人たちの姿を模写することが、この本のテーマなのかな、と思う。

 

ただ一通りではない、多層的な読みのできる本で、芸術を愛し守り伝えようとするパトロンたちの姿や、キュレーターの姿、絵に想いを託す夫婦や親子の姿などは、人と文化の関わりの多様さのあらわれだろう。

 

真の主役は、ピカソの愛人であったドラ・マールなのかなと思う。自身も芸術家でありつつ、圧倒的な太陽であるピカソを愛し、仕え、煩悶する様、「サバイビング・ピカソ」を情感豊かに描いていて、読ませる。

 

「ペンは剣よりも強いか?」という大きな物語の芯に、人が人を愛することで悩むという極私的な物語があるというのは、ある種の真実なのだと思う。

 

『暗幕のゲルニカ原田マハ(新潮社)。

暗幕のゲルニカ

暗幕のゲルニカ