耽典籍:「撮るもの」自身の物語。『アストリット・キルヒヘア ビートルズが愛した女』小松成美さん(角川書店)
「撮るもの」が「撮られるもの」を撮るなかで、「
この本は何について書かれた本なのだろうと、読みながらずっと思っていた。アストリット・キルヒヘアという人の物語では、とどまらないと思う。ビートルズの軌跡でも、ないと思う。
芸術が時代の精神であるならば、時代の奔流を創ってしまう芸術家がいて、創造に引き寄せられて奔流に呑まれてしまう芸術家がいる。スターが生まれ、影の人物や堕ちた才能が生まれるが、みな時代と芸術に人生を簒奪された人たちに見える。そんな、芸術と人との関わりを描いた本なのではないか。
先日、原田マハ著『暗幕のゲルニカ』を読んだ。戦争と芸術、芸術とそれを護ろうとする人々など、様々な織り糸のある小説だが、主人公の一人にドラ・マールが据えられている。自身も画家・写真家であるが、ピカソの愛人となり、その絵画のモデルになり、ゲルニカの誕生を見届け、その制作の様子を撮影した写真によって知られるドラ・マール。
フィクションとノンフィクションを同列にするのは失礼なのかもしれないが、女性で、写真家で、芸術の創造に立ち会いそれを撮り、その「撮られるもの」によって記憶され、時に「撮られるもの」を愛し、「撮るもの」としての人生を歪ませた類例として、ドラ・マールと、アストリット・キルヒヘアを比較したくなるのは、間違ってはいないと思う。
「撮るもの」が撮らなくなってからの人生は長い。ドラ・マールは97年まで生き、アストリット・キルヒヘアも健在なようである。「撮られるもの」がその死まで追いかけられ記憶されるのに比して、「撮るもの」はその「撮る」行為の瞬間だけ記憶され、その後は忘れられる。でも元「
彼女らが撮り続けたら、いつまで生きたのかと考えてしまう。ロバート・キャパは「撮るもの」であり続けようとし、「撮られるもの」=戦争から逃れられず、緩慢な自殺のようにインドシナへ行った。撮影の対象が異なるものの、「撮るもの」であることを辞めたことで人生は長くなるのか。
閑話休題、本書で最も印象的なのは、スチュアート・サトクリフが死に向かうなかでの創作について。
「極端に明るく華やかな絵の具をキャンバスにぶつけ、派手な絵を描きつづけた。だが、やがて、絵の具の色はひとつずつ減っていった。彼の精神が研ぎ澄まされるとともに、暗い色を好んで使うようになっていった。」
精神性を増すと黒に行くという芸術神話は、やはり強い。スチュアート・サトクリフの絵はWebでしか見たことがないが、鮮やかで、人の内面を抉ったような絵が多い。それが死霊に追われるなかで色数を減らしていったのなら、その過程の現物を見てみたい。色など所詮は空であると、スチュアート・サトクリフは悟っていったのだろうか。
芸術と人という読み方だけではなく、歴史ドキュメンタリーとしても面白い。激動の20世紀、近代化の波に乗った事業の成功やナチス時代・敗戦後の苦難など、キルヒヘア家の栄枯盛衰はプチ『ブッデンブローク家の人々』として読みごたえ充分。
最後に、ジョージ・ハリスンは不思議な人だと思った。ビートルズの可愛い最年少、アストリット・キルヒヘアの素直な弟分として描かれる、そして本当にそういう人物だったのだろう「静かなるビートル」。歪んだ人たちが己の業の行く末を求め悶えるなかで、
この本は、変友・武田真優子氏から「読め!」と言われて読んだ。465ページもある本ながら、1日で(正味5時間くらいで)読み切ってしまい、ハンブルグの街角を高速再生したような幻視にしばらくとらわれたのだけれど、「いったい何について書かれた本か?」という疑問にとらわれ、読後録をまとめるのに時間を要した。食べやすく美味なのに消化に困る一冊。
『アストリット・キルヒヘア ビートルズが愛した女』小松成美さん(角川書店)。