雨をうたった歌が好き

梅雨といえば『いま、会いにゆきます』が思いうかぶが、物語のなかで降る雨は、愛する人たちを包み込む慈しみの雨なのだろうかと、僕は疑問をおぼえてしまう。

 

雨は、一人で濡れるものだ。

 

ラカン鏡像段階という説がある。どこまでが自分の身体か判然としない幼児が、鏡に映り動く自身を見て、ここまでが自分なのだと知る。自己の同一性を得る過程だが、雨もこの鏡像と同じではないか。

 

雨は、一人でしか濡れることができない。

 

愛する人とともにいても、雨に濡れて冷えゆく身体は自分しか感じ取れない。愛する人をどれほど抱きよせても、肌に雨粒のあたる感触も、奪われる体温も、その人の分を感じることはできない。しょせん人間の認識など、自分の身体に限られたものであると知らされる。

 

雨に濡れると、人はここまでが自分なのだと知る。恋人でも、親子でも、友でも、一緒に雨に濡れることはできない。雨は、一人でしか濡れることができない。

 

いま、会いにゆきます』は、家族の再生の物語というより、解体の物語だと思う。言いかえれば、自立の物語。そこに降る雨は、愛する人たちを柔らかく包み込むように見せながら、一人ひとりを切り分け、個として立たせる雨。慈しみではなく、孤独の雨。

 

諦めの雨もある。

 

天から降るものに、そしていかようにも形を変えるものに、抗うことはできない。雨が降れば、天気予報に八つ当たりをしながらも、しょうがないなと傘をさすしかない。

 

その受容は、小さな諦めとなる。大きなものを、例えば運命を、しょうがないなと受け入れることを、諦めの雨は教えてくれる。

 

しかし、雨は孤独と諦めだけではない。生命力の雨もある。

 

人間もまた生き物であるなら、水に生かされている。雨に濡れ、一人で肩を落としているときでも、水の流れる躍動に、どこか生命の芽吹きを感じるはずだ。

 

孤独で、何かを諦めきってずぶ濡れになっても、それでも、という生命力を、雨は与えてくれるような気がする。生きる業、ともいえるかもしれない。そんな雨もある。

 

 雨をうたった歌は多い。

 

雨というそのものズバリな題だったり、雨音だったり、激しい雨だったり、傘だったり、傘がなかったり。たくさんの雨の歌がうたわれている。

 

それらは、雨の孤独と、諦めと、それでもの生きる業を感じさせてくれて、好きなものが多い。雨の歌ばかりを集めたCDがあったら、欲しいかもな、と思う。

 

梅雨どきに、色うつろう紫陽花を眺めながら、誰かが静かにうたう雨の歌をきけたりしたら、贅沢なのにな、と夢想したり、しなかったり。

 

ちなみに、『いま、会いにゆきます』は梅雨の物語だが、印象的な花は紫陽花ではない。向日葵だと思う。そのことは、面白いと思う。

 

向日葵は、食べられる。油もとれる。だから一面の向日葵畑ができる。紫陽花には毒があるらしい。黄色い花を太陽の方向にみんなでニコニコ向けている向日葵と、揺らぐ色で雨に濡れる毒持つ紫陽花と、さて、どちらが好みか。

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