耽典籍:男性への殺人だけが、見えない塩になる。『男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問』ワレン・ファレル(作品社)
楔はどこか。
女性活躍やダイバーシティやマイノリティのエンパワーメントなどを謳っていて、男性正社員モデル(「箱入りおじさん」層)にメスを入れようとしないのは怠慢だと思うけど、最近はそういった男性へのアプローチもだいぶ増えてきた。
働き方という切り口から、会社人アイデンティティしか持たない男性にパラレルキャリアを勧めるというアプローチがあるけど、でもそれは本丸を突く楔なのか。
「男らしさ」などというものに規定される男性性やセクシュアリティ自認などを揺さぶることが、ひいては働き方改革にもつながるような気がする。
さらには、男性というものの誕生について。
AIが人類から所詮は道具として誕生しながら人類を脅かしかねないように、そしてターミネーターが人類を支配したように、男性は女性から所詮は道具として誕生しながら女性を脅かし、支配したのではないか、とやんわりと思っている。
ミジンコが、通常はメスしかいないけど生存の危機になるとオスを産み出すことを知って・・。
と、いうよしなしごとを2014年にも考えていて、そんな逡巡に最適な一冊を読んだ2年前の感想。今読み返しても、所感に変化はない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
20140519
『男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問』ワレン・ファレル(
男性は、もっとキャリアや生き方について疑問を持ち、
もっとエシカルな生き方ができるのではないか、と。
そんな点でかなり示唆的な、傑作本。
アメリカの事例がメインのためピンとこない引き合いも多く、
「男性社会」を「男性が男性を殺すためのしくみの社会」
男性ではなく、女性(若い女性でも老婆でも)が、黒人が、
キャリアをテーマとする仕事を本業とする者として、
「過去の生き方を新しいものに移行するための女性と同等の"
「全ての男性に共通してある傷は、
なんて文章は、泣ける。
祖父の遺品と、家紋の謎
家紋のカフスなんて超絶ダサい代物だけど、祖父の遺品とくれば遠慮なく受け継ぐに限る。
僕の一族的ルーツは、鎌倉期より秋田県と山形県の境あたり、鳥海山と日本海にはさまれた出羽国由利郡に土着していた国衆、打越(内越)氏にある。
打越氏は風雅な山間に居をかまえ、白木の神社を建ててみたりして暮らしていたが、それなりに目端が利いたらしく、豊臣政権下では1,250石、関ケ原期には2,000石を得て常陸の国に南下し、江戸初期には3,000石まで行き、その後没落したものの幕府御家人&豪農として茨城県内に生き残り、GHQの農地解放もこらえて、僕に至る。
正直、一族の歴史としちゃ悪くない。
謎が一つあり、家紋がよくわからない。打越氏の家紋は、一文字三ツ星。あの、毛利家の家紋と同じ。天下の毛利家と一緒の家紋なんてカッコイイし、一文字三ツ星というデザインもいい。
けど、どうしてこの家紋なのかがよくわからなかった。毛利家の一文字三ツ星は、鎌倉幕府の政所、大江広元あたりの系譜だけど、打越氏は大江氏とは関係ない。小笠原氏の流れくむとも聞くが、実際はどうだか。所詮は、出羽から湧いた地侍。
その土人形がどうして一文字三ツ星なんて洒落た家紋を持つのかが不思議だったのだけれど、今回の家紋カフスについていた資料にトンデモナイ見解が書かれていた。
打越氏にも戦国小名はいて、打越光隆さんという。光隆さんは関ケ原のとき東軍(徳川方)につき、戦で功績を挙げた。
関ケ原の戦いでがんばったわけだが、関ケ原で行われた関ケ原の戦いではない。北の関ヶ原の戦いで、敵方は上杉氏だった。打越光隆は最上氏の与力として参戦した。
資料によれば、打越光隆はこの北の関ケ原の戦いで誰かの旗指物を拾った。そして、そこに描かれた家紋がカッコよかったので、自分の家紋にしちゃった(!)そうな。
ひとんちの旗を拾ってきて、イケてるからその家紋をパクってしまうなんて、光隆さんは何やってるんだ・・・、と思うが、そこらへんの場当たり感は子孫として妙に共感する。。
ただ、打越光隆はノリだけで家紋を変えたわけではない、はず。打越氏は、この時期に未曾有の危機を迎える。出自の地たる出羽から、はるか彼方の常陸への国替えを命じられた。一族の歴史の第2章を迎えるにあたり、すべてを心機一転として家紋を変えた、のかもしれない。
一文字三ツ星の家紋になってから、出羽の国衆・打越氏は潰え、江戸幕府御家人・打越氏が始まる。
気がかりなのは、旗指物をとられた人が誰だったのか。上杉氏旗下で一文字三ツ星の家紋を持つ一族を探してみるかな。。
しかし考えてみれば、一文字三ツ星は毛利氏の家紋である。それは、打越光隆も知っていたのだろうか。毛利は、当然関ヶ原の敵方、西軍の大将で、徳川幕府にとってはウェルカムな相手ではない、はず。なのにわざわざ、幕府御家人になるにあたって毛利の家紋を騙って自分のものとするとは、、これはある種の反骨精神なのだろうか。
打越氏の歴史は、権力に翻弄される歴史であり、それでもしたたかに生き残る歴史。家紋カフスを身に着けながら、ご先祖のあれこれに徒然の妄念を馳せるのも、充分な悦楽かな。
耽典籍:人生のゲーミフィケーションはヒューマニズムの戦術か、イスラエルでも。『あの素晴らしき七年』エドガル・ケレット(新潮クレスト・ブックス)
うんざりするような現実もある。テロの続く戦時下のイスラエルではなおさら。
でも、ささやかで静かな生活がある。息子が生まれたり、妻にダイエットを勧められたり、仕事のためタクシーに乗ったり、父が死んだり。希少で、人間的な生活。
テロや戦争や政治や、経済やビジネスといった大きな物語は、ドラマチックかもしれないけれど、そこで人間は単位になる。大きな物語という、うんざりする現実と折り合いをつけながら、いかに人間として起伏ある、心ある物語を生きるか。その現代の実例が、書かれている。
『あの素晴らしき七年』エドガル・ケレット(新潮クレスト・ブックス)。
鍵は、ゲーミフィケーションか。
小さい子供をつれた家族で空爆を避けなければいけないとき、お金がないのにアパートを借りなきゃいけないとき、宗教に厳格な姉の子供たちの名前を当てないといけないとき。生きていれば困難な、しかし滑稽な事態に直面することもある。
ため息ついて、頭を抱えながらも、人生のネタとして、スパイスとして、楽しんでしまう、もしくはいつかは楽しめると信じることが、大きな物語に吸収されてしまわないコツなのだと、本を読んでいてつくづく思う。
人生のゲーミフィケーションは、大きな物語にあらがうヒューマニズムの戦術といえるか。『ライフ・イズ・ビューティフル』みたいに。
作家の7年間に身の回りに起こった出来事を36の章にまとめた、ひねりの効いたエッセイか私小説かといった本で、好きな章は読む人によって異なるだろう。
一番気になったのは、「鳥の目でみる」という章。アングリーバードという、人気のストレス発散ゲームーについての家族の会話が書かれている。
パチンコで鳥を発射して(オリーブを咥えた鳩がパチンコで発射されようとしている表紙は、この章からか?)、豚の住む建物を壊すゲームだけど、「鳥は死んじゃうんじゃない?」というおばあちゃんの疑問から想念が広がる。
「アングリーバードが我が家で、そしてほかの場所で人気があるのは、ぼくらがみな、殺したり破壊したりするのが大好きだからだ。」「実は宗教的原理主義テロリストと同じ精神を持ったゲームなのだ。」
テロの頻発するテルアビブに住み、ホロコーストを生き延びた父を持ち、世界中をまわってうんざりする現実を直視する作家は、ヒューマニズムを楽観視しない。人間を信じきったりしない。戦争や人殺しが状態の世界で生き続けている我々には、平和こそ真の耐え難い未来ではないか、という皮肉も放つ。
でも最終章「パストラミ」で、そんな皮肉への反論が。戦争のない世界になったら、戦争抜きでゲームをすればいい。そんなゲーミフィケーションもあるはず。
「「もしサイレンがもう鳴らなかったら」と前の席のママが付け足す。「サイレンなしでパストラミごっこしてもいいわね」」
耽典籍:どこともつながっている辺境が増殖する世界の文学。『ターミナルから荒れ地へ』藤井光(中央公論社)
10月にノーベル文学賞が発表されるころになると気になるのは、「村上春樹は受賞するのか?」ではなく、「アメリカ文学は受賞するのか?」だったりする。
アメリカ文学の作家は、トニ・モリスン以来ノーベル文学賞を受賞していない。1993年以来ずっと。
(北米でいえば、2013年にカナダのアリス・マンローが受賞している。極めて味わい深い文学だけど、アメリカ文学とは言いにくい。)
ドン・デリーロとかリチャード・パワーズとか、優れたアメリカ文学はあっても受賞する気配もないのはどーしてかな、ノーベル委員会と仲が悪いとか、政治的なことはあるだろうけど・・・と思っていたけど、この本を読んでいろいろ納得した。
アメリカ文学は大きく変容している最中ということか。それは多くの文学がその言語に根差して持っているローカル性を失っているから。さらには他の多様なローカル性を持っている作家が言語(英語)を道筋にアメリカ文学に着地してきているから。
『「アメリカ」なき時代のアメリカ文学』という副題が実に端的にあらわしていると思う。
面白かったのは、アメリカ文学的作家は500ページを超える大作を書き、自分なりのアメリカ像を作り上げなければならないみたい、、そのお手本はメルヴィルの『白鯨』である、という指摘。(ちなみに、『白鯨』の影響力って、あんまり日本で文学を読む人には伝わらないよなぁ・・とか思っているんだけど、どうなんだろう。)
「ターミナル」と「荒れ地」という比喩は、グローバル化・スーパフラット化と、それによる辺境化・nowhere化を表しているようで、示唆に富む。どこともつながっている辺境?みたいな感じかな。
「グローバル化が進むにつれて、この世界のあちこちに、ターミナルだけではなく荒れ地も増殖していないだろうか?
たとえば、夢も希望もないように感じられる仕事、現代に特有の紛争や内戦によって傷付き疲弊した社会、さらには効率化とスピード化の名目によって「無駄」だと切り捨てられていく作家という職業・・・。
効率を旗印に整備されていくグローバル世界からはかけ離れているようで、実は常に寄り添う「異物」のようにして、荒れ地はいたるところで日々生み出されている。」
荒れ地はどこか遠くにあるわけでなく、すぐ傍に、自分自身の中にも増殖している、ということか。
とすれば、それはアメリカ文学に限る問題ではない。「ターミナル+荒れ地」という場でいかに生きるかは、現代そして未来の誰もが直面しているテーマなのだろう。
「「ターミナル+荒れ地」という拡大中の場所があり、そこでの作家たちは「異物」としての小説を生み出すことで、彼らなりの闘いを日々続けている。」
ノーベル文学賞は、いまだ強いローカル性を感じさせる作家が受賞の中心となっていると思える。
「ターミナル+荒れ地」から書かれた文学と思える作家が受賞する頃には、世界はどう変わっているのだろうか。それは、あと何年以内のことなのだろうか。
最後に、本の終章近くで紹介されていたモハメドゥ・ウルド・スラヒというモーリタニア人の本の話しが印象的だった。
ターミナル化した社会の戦争=テロの関与者として、スラヒはnowhereであるグアンタナモに囚われ、そこで生き残るため、自分の存在を主張するために自信を尋問する側の言語の英語で手記を書く。
この凄まじいねじれこそが、現代だなと思う。こういう場所で、僕たちは生きているんだなと思う。
『ターミナルから荒れ地へ』藤井光(中央公論社)。
ターミナルから荒れ地へ - 「アメリカ」なき時代のアメリカ文学
- 作者: 藤井光
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2016/03/09
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (3件) を見る
愛と含羞の西武鉄道
高田馬場で幼少期をすごした者にとって、一番のアミューズメント
もう四半世紀前にもなるが当時のビッグボックス1階には噴水があ
森監督のもと、清原・秋山・石毛・工藤・デストラーデなんかがい
西武新宿のぺぺやサブナードなんかに女の子と行ってしまえば、も
今から考えると、子供の世界におけるバブル時代だったのだろう。
遠足はいつも黄色い西武鉄道に乗って、航空公園とか、足を延ばし
また、幼稚園から小学校低学年まで一緒だった女の子が彼方に引っ
小学校を卒業したとき、好きだった女の子と集団デートだかみんな
時は流れて、、
28歳で“社会人”として拾ってもらったのはセゾングループの会
西友・西武百貨店をはじめとするセゾンの大先輩方の教えをひたす
堤家、西武・セゾングループの本も読み漁った。
そんな中から、兄弟グループの西武鉄道に一筋の糸を頼んで投げ込
西武鉄道はサーベラスとのせめぎ合いを続けながら、上場を目指し
というか、とてもお世話になって恩義この上ない。
ついつい西武鉄道のグッズもいっぱい買ってしまい、最たるものは
西武鉄道との仕事からは離れてしまったが、そこで事業責任者をし
そんな西武鉄道、というか西武HDが再上場ということで、まだま
耽典籍:戦争より大きい人間を感じるには、ドキュメンタリーか詩か。『戦争は女の顔をしていない』スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(岩波現代文庫)
驚くほどに何の感想もなく、驚くほどに何も浮かばない。
2015年ノーベル文学賞受賞者、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチのデビュー作『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫)。
第二次世界大戦でソ連軍に従軍した女性たちのドキュメンタリー。必読は冒頭、著者による執筆日記「人間は戦争よりずっと大きい」。
「人間は戦争の大きさを越えている。人間のスケールが戦争を越えてしまうような、そういうエピソードこそ記憶に残る。」「その戦争の物語を書きたい。女たちのものがたりを。」
戦争や歴史や神話といった大きな物語でも覆いつくせない人間性に迫ろうとするヒューマニズム礼賛は、実にノーベル文学賞らしい。
一方で、大きな物語を「男の」といい、その裂け目から顕れる人間の物語を「女の」ということは、ちょっと古いかなと思う。人間の物語には男も女もない。そして人間のセクシュアリティは多様。
・・・くらいの感想は浮かぶものの、それ以上の心から湧くものが、何度読んでもなかった。
感想がないのが感想。
主著ともいえる『チェルノブイリの祈り』を読んだ時も似たような感覚を覚えたけど、『戦争は女の顔をしていない』では、さらに。
「思いで話は歴史ではない、文学ではないと言われる。」「いたるところに煉瓦は転がっているが、煉瓦はそれ自体では寺院ではない。」「わたしは人々の気持ちを素材に寺院を組み上げる・・・わたしたちの願望や幻滅を。わたしたちの夢を素材に。」
ドキュメンタリー文学とは、こういうものか。
ただ、無性にヴィスワヴァ・シンボルスカ(1996年ノーベル文学賞受賞)の詩集を読みたくなった。
シンボルスカは、戦争や歴史や神話といった大きな物語による高揚・陶酔に人がとらわれ、人らしさを喪失しても、日々の営みや自然の移ろいのなかで回復するヒューマニズム、人間臭さがあり続けることを詠う。
アレクシエーヴィチとシンボルスカ、ベラルーシとポーランドのノーベル文学賞受賞者が願い祈るものは同じだが、その文学的アプローチはシンボルスカのほうが好き。ドキュメンタリーより、詩のほうが。
アレクシエーヴィチを読んで、シンボルスカの詩を欲するのは、戦争よりずっと大きい人間を感じるために、ドキュメンタリーよりも詩を欲する自分自身の好みが故だと思う。
「現実が要求する」シボルスカ
この世には戦場のほかの場所はないのかもしれない
戦場にはまだ記憶されているのも
もう忘れ去られているのもあるけど
白樺の林、杉の林
雪と砂、虹色に輝く沼
そして、黒い敗北の谷間
いまでは人はそこで突然の必要に
迫られて藪の中にしゃがみこむ
耽典籍:医療を医者に預けるな、エシカルをブランドに預けるな、キャリアを会社に預けるな。 『一流患者と三流患者』上野直人先生(朝日新書)
友人武田真優子氏の友人であり、今度Perfumeのライブにご一緒させていただく、MDアンダーソンがんセンター腫瘍内科医兼Perfume依存症患者(by武田氏)の上野直人先生のご著書。
『一流患者と三流患者』上野直人先生(朝日新書)。
医療の現場で、患者が自身の治療について主体的でない、医者や病院まかせ、ということへのもどかしさが満ちた本なのかな、と読んだ。
エシカルとか、キャリアについても同じかなと思う。
エシカルファッションの話しをするとき、買いたいブランドがないとか、買いにくいとかいう話が出る。それは、エシカルをブランドに預けていることになるんじゃないかと思う。
エシカルとは、どのブランドやどの商品を買うかではなくて、一つ一つのモノ・コトとの関わりにおいて、世界とどれほどの時間的・空間的つながりがあるかをしっかりと考えて選択する、ということだろう。
ブランドを選ぶことがエシカルであると考えるのは、他者に選択も責任も預けてしまっていることになる。社会と向き合う大切な責任を、他者に預けて、頼って、自分の責任を果たしていないんじゃないかなと思う。
別にエシカルを標榜しているモノ・コトでなくても、自分が時間的・空間的なつながりを考えて買い、使うことができるのなら、それがあなたのエシカルだろう。
同じ構造が、キャリアについても。キャリアを、会社や上司に預けるなといえる。
医療を医者に預けるなといっても、やっぱり病気になって病院に行って先生のお話しを聞けば、多少疑問に思ってもハイハイとおとなしい患者になってしまいがち(自分はなってしまう)けど、そうならないための方法はちゃんと書かれていて、すぐ使えます。
正確な情報をちゃんと聞いて、比較検証しようというのが概略かなと。
それにしても、医療を医者に預けるな、エシカルをブランドに預けるな、キャリアを会社に預けるなというわけで、個々人の情報収集と判断を選択がとても大切になっており、全部ちゃんと主体的にやっていたら大変。
いつからこんなに主体的に生きなければいけない要請が強くなってきたんだろう。そこで起こるストレスや衝突などは、どう対処されるんだろう。