映画「月光」で思いおこす当事者性について

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しあわせなみださんの「月光」鑑賞会に参加してから、感想めいたものをまとめようと思いつつ半月がたち、東京での上映は今週末までとなってしまった。

 

何かがひっかかって、所感がまとまらない。

 

良い映画でした。扱うテーマを鑑みて語弊があるかもしれないけど、面白かった。男性監督が描く性暴力被害の映画、というセンセーショナルな紹介にとどまらず、もっと広がりがあり、上っ面ではない社会への課題提起がたくさんあった。

 

エキセントリックな人が刺激的に性暴力を描いた映画ではなく、真摯な人がリアリティをもって人と人との関わりの困難さを描いた映画、だと思う。

 

さらに映画的な、色合いや音、メタファーとなる小物などのしかけも充分に盛り込まれていて、物語性が豊かで、美しい。どなた様もぜひ、とは言えないけど、見てよかったと思う映画なはず。

 

・・・と、いうのが一般論的な「月光」の感想だけど、何かひっかかる。

 

よく考えてみたところ、自分の中の当事者性が刺激されているのかな、と思った。

 

丁寧にリアリティをもって描かれている映画なので、性暴力やDVの被害者(さらには加害者)や、家族との関わりに困難をもつ人などは、自身の経験に照らしてピンとくるシーンがあり、避けたいことに触れられた気がしたり、蓋していたものが疼いてしまったりするのだろう。

 

僕は社会逃避というか対人恐怖の当事者だった。キャッチーにいうと、中退ニート。物理的にはひきこもらなかったけど、精神的ひきこもり。

 

 人と接するのが嫌で面倒で、特に楽しげな人の集まりが苦痛で、社会に価値を感じなくて、厭世をこじらせて東大をドロップアウトして、その後も失意と嫉妬に苛まれて人から連絡が来ることが恐怖で、人とコミュニケーションをとらないといけない場から逃げ続けた。

 

とにかく、人と社会を怨嗟した。

 

そのくせ、ひきこもって隠遁しきる踏ん切りがつかず、何となく学校に通ったり、小銭稼ぎをしたり、人ゴミの街中を毎日さまよい歩いた。

 

映画では、性暴力被害にあった後の主人公がかかってくる電話に極度におびえたり(でも結局電話に出ちゃったり)、道をふらふら歩いてフラッシュバックで気絶したりする様子が描かれているけど、そこら辺がものすごくピンときて刺さる。

 

人から接触されることの恐怖が、目の前に立ち上ってくるみたいだった。

 

もちろん性暴力被害と、自我がこじれた末の中退ニートとはレベルが違うけど、抱えた修羅は近しい。そんな修羅の記憶が呼び覚まされて、ひっかかって、映画の所感がまとまらなかったのかな、と思う。

 

それだけ、リアリティのある、地に足のついた映画なのだろう。

 

映画の感想としては、僕は自分が大学中退して社会から逃避した過去と、きちんと向き合っていないんじゃないかと思った、ということになろうか。

 

今は人にまみれて生きて、人と社会についての仕事をし続けているけど、そのモチベーションは過去の当事者性からの反動も大きいだろうし、蓋をとって仔細に眺めることができる状態になっていると思う。

 

きちんと、自分自身の当事者性について考えるべきか。

 

という、極私的な感想なのだけれど、「月光」はこのような一人ひとり異なる当事者性を呼び起こして向き合わさせる映画なのだと思う。

 

しあわせなみださんの鑑賞会のように、数人で見て、どこが刺さったのかをシェアしあうと、それぞれのコアがわかって面白い、かもしれない。。

 

最後に、EDAYA的には、「こんなところに日本人」でフィリピン北ルソン島カリンガの村にまできてくださった美保純さんが、複雑で、意味合いの深い役を演じていらしているので、注目です。

 

改めて、卜沢さんに感謝。

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