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映画『ポバティー・インク』から思う「Why→How→What」のエンパワーメント

「魚を与えるんじゃなく、魚の釣り方を教えるんです」とドヤ顔で言われると腹が立つ。

 

第一、だいぶ手垢のついた表現だ。ドヤ顔で言うならそんなベタな骨董表現ではなく、もっと括目に値することを言ってほしい。

 

そして、いわゆる「Why、How、What」のHowまでしか言及してないんじゃないのと思う。魚の釣り方というHowを教わって、晴れの日も雨の日も魚を釣って、温暖化で海流が変わっても、海が干上がっても、放射能が流れてきても魚を釣って。で?

 

それはエンパワーメント?

 

援助じゃだめだ、産業を興さないとといって、受託ビジネスを根付かせることがある。雇用はたくさん産める。でもWhyは根付いているのか。委託先の事情が変わったら、どうなるのか。

 

フェアトレードエシカルの文脈でも同じかも。そりゃ公正な対価を支払うだろう。でも(いわゆる)先進国でデザインして工程を決めて、(いわゆる)途上国で受託工場のようにそれを作って、先進国に納めて。Whyは根付いているのか。それを「途上国のお母さんたちが作っているんですよ」と美談めかしていいのか。

 

EDAYAの、というか山下彩香代表の問題意識はそういうところにあって、僕はそれを我流に解釈しているが、エンパワーメントとは「Why→How→What」の流れを自分で考え作る出せるように、契機を与え萌芽をさせること、なんだと思う。少なくともEDAYAのアプローチは、そういうものだと思う。

 

Whatだと魚をバラ撒けばいいし、Howも釣り方教室をひらいて釣り具を与えればいいけど、Whyとなると個々に事情が異なるし、伴走型になって時間もかかると思う。

 

でも人と真摯にかかわっていくなら、覚悟すべきことなんだと思う。途上国とか貧困とかマイノリティとかだけのことではなく。

 

アーヤ藍さんの計らいで、『ポバティー・インク』の試写を見て、日頃から考えていたそんな徒然を思った。映画は、Whatの寄付の弊害の話が多い気がした。

 

これもEDAYA的な考えだけど、社会に向けて何かを行おうとする時、マスを求めたがる傾向が、いろいろな歪みを産むのかも。

 

靴が何千人もの子に届きます。この仕組みで数万人の子が勉強できます。数十の村で水が飲め、何千人の人が喉を潤せます。

 

マスに届くアプローチは、インパクトはそりゃ大きいけど、雑駁なWhatのバラ撒きに陥りやすくないか。

 

さらにマスを目指す志向は、よりたくさんの対象に、もっと数を、という射幸心を掻き立てて、映画が批判するような支援者のための支援産業『ポバティー・インク』に至りやすい道ではないか。

 

「この取り組みは何人に届いているんですか?」「うーん、3人ですね。3人と10年つきあってます。」と答えても評価されるように、小さくても「Why→How→What」を根付かせることを奇貨とするように、なればいいのに。非生産的とか言わないで。

 

コンゴの元少年兵の方に、質問をする機会があった。「コンゴ民主共和国で暮らす人たちのために、何かを行いたい。どのようなことが望まれますか?」という問いに、「コンゴに行き、現地の人が自分たちの暮らしを良くするために何の活動をしようとしているのか知り、その活動に投資をしてサポートして欲しい」という答えだった。

 

現地に近い目でWhyが立ち上がるのを見つけて、Howになる辺りから伴走してサポートする、というのは、望ましい関わり方なのではないかと思う。

 

こういう関わり方を実践している友人も、実際にいる。

 

と、いうわけで『ポバティー・インク』とう映画は、コンゴ民主共和国とかかわる活動であるメロンパンフェスティバルの平井萌さん、牧野朋代さん、和泉大介くんには見てもらいたい、と思いました。

 

映画上映は8月6日からだそうです。

 

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