ラナ・プラザの後でファッションを語らないのは野蛮か

GWに島根県エシカルファッションショーをやることとなり、コレクションの動画などをよく見ている。思うのは、ファッションと文学は似ているな、、ということ。

 

アダムとイブが手にしたイチジクの葉以来、人は服をまとい続けている。地域や時代による違いはあれど、服の基本は変わらない。そして有史以来いかほどの服が着られてきたのか、数えることもできない。ファッションは、服を意図をもって着ることで、文化としたもの。あまりに多くの服が着られてきたので、ファッションも出尽くしてしまったのではないか、と思ってしまう。モードの世界でどれほど目新しいコレクションが出ようと、それは今までに着られ尽くした服から切り口と味付けを変えただけではないか。僕はかつてアントワープ6に夢中になったが、果たしてそこに真のオリジナリティはあったのか。

 

文学も同じ。プロメテウスに教えられて以来、人は言葉を発し続け、有史以来いかほどの言葉が語られたか数えようもない。文学は、言葉を意図をもって語ることで、文化としたもの。あまりに多くの言葉が語られたので、文学も出尽くしてしまったのではないかと思う。世界中で1日にいかほどの詩や小説が紡がれるのか知らないが、果たしてそこに真のオリジナリティはあるのか。

 

ファッションと文学は似ている。着られ尽くし語られ尽くしたものの上に、現代を生きる私たちが重ねるものなど、ないのではないか。人の営みなど、虚しい。

 

1996年にノーベル文学賞を受賞したポーランドの詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカの受賞記念講演が好きだ。シンボルスカはこの虚しさに真摯に向きあう。旧約聖書『伝道の書』の伝道者は、「太陽のもと、新しいものは何ひとつない」といったという。人の営みの虚しさを知る人なのだろう。シンボルスカは、柔らかに伝道者へ反論を伝える。どれほど巨大で果てしなくとも、世界にはたくさんの驚きがあり、あなた自身も太陽のものに新しく生まれてきたのではないか、と。

 

「一語一語の重みが量られる詩の言葉では、もはや平凡なもの、普通のものなど何もありません。どんな石だって、その上に浮かぶどんな雲だって。どんな昼であっても、その後に来るどんな夜であっても。そして、とりわけ、この世界に存在するということ、誰のものでもないその存在も。そのどれ一つを取っても、普通ではないのです。」

 

エシカルファッションに関わっていて、虚しさを感じるときがないわけではない。どんなに人に、自然に、未来につながる優しさがあっても、しょせん世界にとって微差でしかなく、それでも服を送り出すことに意味はあるのか。この世に服は溢れているのに。しかしシンボルスカに励まされながら、「一枚一枚の重みが量られるファッションの服」を広めることで、太陽にもとに新しい何かを生み出そうとすることが、僕の務めなのかと思う。

 

その上で。

 

ファッションと文学の類似を思うとき、のしかかるのはアドルノの言葉である。

 

アウシュビッツの後で、詩を書くのは野蛮だ」とフランクフルト学派の思想家、テオドール・アドルノは言う。難解な公案。人の営み、文化がナチスを生み、アウシュビッツを作ったのであれば、文化の粋たる詩はいかような詩であってもナチスと同根であり、その根本が改まらぬままに書かれる詩は野蛮である、というのがわかりやす解釈であろう。

 

ファッションにも、これは言えないか。文化や経済がファストファッションを生み、ラナ・プラザを作ったのであれば、文化や経済の粋たるファッションはいかようなファッションであってもファストファッションと同根であり、その根本が改まらぬままに着られるファッションは野蛮である。そう言えないか。エシカルだろうと何だろうと、服が作られていく構造は同じなのだから。

 

もう一度シンボルスカにすがる。アウシュビッツの後で、ポーランドの民として、詩を書いていた詩人ならどう反駁するだろうか。

 

僕が最も好きな『現実が要求する』という詩がある。世界中の悲惨な戦闘が行われた地名を挙げつつ、そんな地でも人々の生活は続き、ささやかな日常の喜びだってあることを詩人は詠う。

 

「現実が要求する これも言っておくようにと 生活は続いていく それはカンネーやボロジノの近郊でも コソヴォの野でも、ゲルニカでもおなじこと」「ヒロシマがあるところでは またもやヒロシマが繰りかえされ 日用品がたくさん製造される」「悲劇の峠で 風が頭から帽子をもぎとる それはしかたのないこと それを見てわたしたちは笑ってしまう」

 

ヒロシマで製造される日用品には、詩も、服も含まれる。文化や経済の根本はそうは変わらない。悲劇は繰り返されるだろう。「この世には戦場のほかの場所はないのかもしれない」。それでも現実は続いていくのだから、そこで生まれる驚きを、太陽のもとの新しいものとして詩にしていくことが詩人の務めだと、シンボルスカは伝えていると思える。戦場に覆われたとしても、それに屈さない人の美しさや世界の尊さだってあるのだと。

 

「この恐ろしい世界には魅力がないわけではないし 起きるに値する朝だって あることはある」

 

ラナ・プラザはなくならないだろう、繰り返されるだろう。アウシュビッツが姿かたちや規模や手口を変えて繰り返されるように。その野蛮に与したくないのなら、アドルノの言うように口を噤むのも良い。しかしだんまりを決めこんでも野蛮はなくならないのなら、野蛮を忘れぬままに、それでも屈せぬ美しさを語るべきではないか。

 

だから、ファッションをもっと語ろう。ラナ・プラザがなくならなくても、ファッションにはそれに屈せぬ美しさがたくさんある。その服が何で作られ、誰がどこで作り、どう売られ、どう着られるか。ファッションとして、どのように自分や周りの人を浮き立たせるか。

 

エシカルファッションとは、別にエシカルブランドの服のことではない。このような、ちゃんと語ることのできるファッションのことだと思う。

 

2017年4月24日、ファッションレボリューションデーに言う、ラナ・プラザの後でファッションを語らないのは野蛮だ、と。

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