耽典籍:君は戦争より生まれたが、君が死んでも戦争は死なず、今日も第二第三の君は死ぬ 『coyote 旅する二人キャパとゲルダ』

ゲルタ・ポホリレという女性は戦争を撮るためにスペインへ向かい、戦争写真家ゲルダ・タローとなった。エンドレ・フリードマンは彼女を愛し、同じく戦争を撮るためにスペインに向かい、戦争写真家ロバート・キャパとなった。
ゲルダ・タローは死に、残された戦争写真家ロバート・キャパは拡大する戦火とともにその名を上げた。

世界を巻き込んだ戦争は終わり、戦争写真家の仕事は子供たちの笑顔を撮ることにかわるかに思われたが、各地に散った熾火は消えず、ロバート・キャパは戦争は撮るためにベトナムへ向かい、死んだ。

コルネール・フリードマンは兄が戦争写真家ロバート・キャパとなり名を上げたため、コーネル・キャパとなり、兄の死後その遺したものを継いだ。

遺したものの最大は、「戦争写真家ロバート・キャパという物語」であった。

コー ネル・キャパの意思がどこまで強固だったのかは知らないが、ロバート・キャパを巡るすべてが、伝記も評論も写真展も、この「戦争写真家ロバート・キャパと いう物語」にからめとられてメビウスの輪を抜けず、それがロバート・キャパの写真を見るときの耐え難き違和感として残る。

誰もが、誰かを演じて生きて死んでいる。

僕の大学の研究は、ロバート・キャパ自身がこの「戦争写真家ロバート・キャパという物語」にからめとられ、「緩慢な自殺」をしたのではというものだった。


雑誌coyoteがどうしてこのタイミングでロバート・キャパゲルダ・タローの特集を出したのかは知らないが、沢木耕太郎のさまざまなキャパを巡る文章が集まっている読み甲斐はたいしたもの。

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文中で、やはりキャパの写真は「キャパという物語」によって照らされて「歴史」となっているという趣旨が書かれているが、それを違和感としてその外へという意志は感じられない。

かろうじてゲルダ・タローの評伝の紹介は、「戦争写真家ロバート・キャパという物語」を側面から揺する微振動があると思うが、やはり微力である。
つまるところ、「戦争写真家ロバート・キャパという物語」への違和感はいまだ続くのみ。

コルネール・フリードマン=コーネル・キャパの伝を読みたい。