耽典籍:学生がたった4年間国際協力に関わり、残される一粒の麦 『狂気について』(渡辺一夫)より『トーマス・マン『五つの証言』に寄せて』

学生団体の活動で、大学生の4年間だけ国際協力に関わる。就活に有利なんじゃないかと、ボランティア活動に携わる。その行きつく先が貧困地域の給食やコンゴの医療機関と知らぬまま、レストランを予約したりメロンパンを買ったりする。

 

一生をかけるといった覚悟は持てぬまま、もしくは関わっていることを意識せぬまま社会活動の一旦となることの是非や、どこまで敷居を低くしていけばいいのかなどを、開催中のEDAYA JOURNEY展で幾人かと話していて、多くの人に共有される課題認識なのだなと思った。

 

僕はタネが蒔かれればよい、という考えで、それはニートの子が働き出す経緯と同じく、首に縄をつけて働かせることはできないものの、タネだけあれば発芽させたいときに自らするだろう、という思いがあるから。発芽しないタネがほとんどだとしても。

 

たまたまフランス文学渡辺一夫の評論選『狂気について』(岩波文庫)を読んでいた。

狂気について―渡辺一夫評論選 (岩波文庫)

狂気について―渡辺一夫評論選 (岩波文庫)

 

 

渡辺一夫トーマス・マンの小冊子を訳した折の文章『トーマス・マン『五つの証言』に寄せて』。1945年8月15日正午すぎ、すなわち玉音放送による敗戦の知らせの直後に、渡辺一夫辰野隆を訪ねた話がもとになっている。

本土決戦が迫る空襲下で、渡辺一夫はくだんのトーマス・マンの小論を読み、訳して、その思索をいかに残し伝え得るかを考えていた。

そこで『「一億玉砕」するにしてもマンを識っている人間が一人でも二人でも生き残れば、すべての可能性は保持されると思ったのであります。』とある。

 

敗戦という極限と今をは比ではないが、ゴールの遠い果てなき願いを実践しつつ次代につなぐ者の胸に秘めるものとしては、この姿勢が見習うべきものなのではないか。

そして、僕自身が思っているタネを蒔くという思いを、より悲痛な形で表現していると感じた。

 

文頭にジッドが引かれるが、『一粒の麦もし死なずば』ということか。

 

これは良いことなのか、もしかすると残念なことなのかもしれないが、戦中戦後の学者・思想家・評論家のものを読んでいて、その現代性に感嘆することが多くなっている。花田清輝などの文は、今まさにこの話が焦点だよ、と多々感じる。

 

決して、食傷なプロパガンダのように今まさに戦前である、という警鐘につなげる気はない。が、日本が世界的な知の営みの一部であらんとした時代の知識人の言葉を、ちゃんと読んでくれる若手が増えることは願う。

 

『ユマニスムなるものは、たとえそれがいかに「甘く」且つ「無力」でありましょうとも、いやしくも学問や思想に生きようと志した人間は、飽くまでこれを護らねばならぬものと考えますが、それでよろしいのでしょうか?』