祖父の遺品と、家紋の謎
家紋のカフスなんて超絶ダサい代物だけど、祖父の遺品とくれば遠慮なく受け継ぐに限る。
僕の一族的ルーツは、鎌倉期より秋田県と山形県の境あたり、鳥海山と日本海にはさまれた出羽国由利郡に土着していた国衆、打越(内越)氏にある。
打越氏は風雅な山間に居をかまえ、白木の神社を建ててみたりして暮らしていたが、それなりに目端が利いたらしく、豊臣政権下では1,250石、関ケ原期には2,000石を得て常陸の国に南下し、江戸初期には3,000石まで行き、その後没落したものの幕府御家人&豪農として茨城県内に生き残り、GHQの農地解放もこらえて、僕に至る。
正直、一族の歴史としちゃ悪くない。
謎が一つあり、家紋がよくわからない。打越氏の家紋は、一文字三ツ星。あの、毛利家の家紋と同じ。天下の毛利家と一緒の家紋なんてカッコイイし、一文字三ツ星というデザインもいい。
けど、どうしてこの家紋なのかがよくわからなかった。毛利家の一文字三ツ星は、鎌倉幕府の政所、大江広元あたりの系譜だけど、打越氏は大江氏とは関係ない。小笠原氏の流れくむとも聞くが、実際はどうだか。所詮は、出羽から湧いた地侍。
その土人形がどうして一文字三ツ星なんて洒落た家紋を持つのかが不思議だったのだけれど、今回の家紋カフスについていた資料にトンデモナイ見解が書かれていた。
打越氏にも戦国小名はいて、打越光隆さんという。光隆さんは関ケ原のとき東軍(徳川方)につき、戦で功績を挙げた。
関ケ原の戦いでがんばったわけだが、関ケ原で行われた関ケ原の戦いではない。北の関ヶ原の戦いで、敵方は上杉氏だった。打越光隆は最上氏の与力として参戦した。
資料によれば、打越光隆はこの北の関ケ原の戦いで誰かの旗指物を拾った。そして、そこに描かれた家紋がカッコよかったので、自分の家紋にしちゃった(!)そうな。
ひとんちの旗を拾ってきて、イケてるからその家紋をパクってしまうなんて、光隆さんは何やってるんだ・・・、と思うが、そこらへんの場当たり感は子孫として妙に共感する。。
ただ、打越光隆はノリだけで家紋を変えたわけではない、はず。打越氏は、この時期に未曾有の危機を迎える。出自の地たる出羽から、はるか彼方の常陸への国替えを命じられた。一族の歴史の第2章を迎えるにあたり、すべてを心機一転として家紋を変えた、のかもしれない。
一文字三ツ星の家紋になってから、出羽の国衆・打越氏は潰え、江戸幕府御家人・打越氏が始まる。
気がかりなのは、旗指物をとられた人が誰だったのか。上杉氏旗下で一文字三ツ星の家紋を持つ一族を探してみるかな。。
しかし考えてみれば、一文字三ツ星は毛利氏の家紋である。それは、打越光隆も知っていたのだろうか。毛利は、当然関ヶ原の敵方、西軍の大将で、徳川幕府にとってはウェルカムな相手ではない、はず。なのにわざわざ、幕府御家人になるにあたって毛利の家紋を騙って自分のものとするとは、、これはある種の反骨精神なのだろうか。
打越氏の歴史は、権力に翻弄される歴史であり、それでもしたたかに生き残る歴史。家紋カフスを身に着けながら、ご先祖のあれこれに徒然の妄念を馳せるのも、充分な悦楽かな。