稲葉、稲葉村行ってきたってよ。
そんなわけで、夏休みは稲葉村に行っていた。
合併により、栃木県下都賀群壬生町上稲葉/下稲葉という。栃木市や小山市、鹿沼市に隣接している。小山評定で有名な思川と、黒川という川に挟まれ、両川が合流する三角地帯にある。
名前の通り、父方・稲葉家のルーツがここらへん。
いつ頃か、僕に連なる稲葉さんは稲葉村を離れ、黒川を遡り、現在の鹿沼市玉田町に移り住んでいた。いい田圃があったんだろう。大正・昭和になって茨城県水戸市に来て、そこから東京都新宿区に来て、今。
僕のルーツとしては、母方の打越氏が鎌倉期から続く小豪族で、歴史に翻弄されてユニークな、しかし世を嫉むような運命を辿っており、僕自身のアイデンティティもそちらの一族に重ねている。ちなみに、昨年の夏はその打越氏発祥の地を訪ねた。
打越氏については千万言を尽くしてしまうが、、父方の稲葉家についてはしょーじきあんまりきょーみない。だって栃木で稲作やってた農家なだけだもん、きっと。
・・・とはいえ、せっかく出自がわかるのだから、稲葉家の発祥地も見ておこうと思って、行ってきた次第。
稲葉村は、水の豊かな土地だった。
思川と黒川に挟まれ、クリークのような小川や水路がたくさんあった。水はとても澄んでいた。稲葉の名の通り、田圃が広がり稲作が行われていた。その中を日光街道が通り、トラックが随分と走っていた。
瓦屋根のところが多く、申し訳ないほどボロボロな家が散見し、いつ建てたんだろうと不思議だった。大谷石でできた蔵があちこちにあり、よくわからないサイロだか煙突だかも見え、それがみんなボロボロ。
大正~昭和初期くらいに、何か産業を興そうとして失敗したまんま、、なのかなと思った。
余談ながら、道端に五右衛門釜が置いてあったりして、何で???
水の豊かさと、朽ち果てた蔵が印象的な町だった。
旧・稲葉館という神社にも行ってみた。床下が高く、忍者が忍び放題だろこれ、みたいな館。川が氾濫してくるのかな。
稲葉保育園というのも、稲葉小学校というのもあり、写真を撮ってきたのだけれど、不審者といえば不審者なので捕まらなくてよかった。小学校には「みんななかよし稲葉の子」という標語が掲げられていた。ちょっと気恥ずかしい。みんな仲良くしようね。
「稲葉の一里塚」がある水路沿いの道を帰りつつ、我ながら何をしに稲葉村へ来たのかよく分からなかった。
炎天下を、素足履きの靴で何時間も野良犬のようにうろつき歩いたので、意識が朦朧として虚実の淡いが曖昧になってしまい、時が見えるほど。。
でもこんな目的不明にひたすらに歩く道程って好きなのだ。歩くと、よく反省できる。ただ、今回はちゃんと地域の産業史を調べてくればよかったと思った。きっと相応の歴史があるだろうから、改めて調べてみる。
人間がそれぞれの時にそれぞれの場所で、どう生きようとしていたかを考えるのは、とても面白い。僕に連なる稲葉さんは、この水の豊かな地で何を考えて生きていたんだろうな。。。
そんなとりとめのない稲葉村往訪でした。