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耽典籍:潜在化してこびりついたジェンダーギャップ解消のために。『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(河出書房新社)

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ナイジェリアの作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのTEDxトークにもとづく本書は、ジェンダーによる差別が横行する社会より、それが潜在化してこびりついてしまった社会により意味を持つ。

 

ジェンダーギャップ指数が世界111位の日本のような。

 

社会で主張できていると思っている女性でも、またそれに協力的だと思っている男性や組織でも、意外と多くの足枷を残したままであることは、ギンカ・トーゲル著『女性が管理職になったら読む本 ―「キャリア」と「自分らしさ」を両立させる方法』などにデータとして詳しいけれど、本書もそれと同様のことを平易なエピソードで伝える。

 

陥穽があるのだろう。表面的な女性差別は少ない。頑張っている女性も目につく。社会もそれを支援する風潮もある。だからそれでいいと思ってしまい、小手先で満足してしまって、みなジェンダーギャップの根にまで目を向けないですましがち。

 

自戒があって、マタハラnetさんの研修で6人組くらいのテーブルに分かれてディスカッションをした後で、各テーブルをリードしたファシリテーターは誰だったか手を挙げさせられたら全テーブル男性だった。僕も手を挙げた一人。

 

マタハラnetさんに来るくらいなので、ジェンダーについて意識的な男性たちである。そして参加していた女性たちも仕事ではリーダーを務める方たちが多かった。にもかかわらず、テーブルでリーダーをと言われるとごく自然に女性が遠慮がちになり、男性がでは私が、、と引き受けたことになる。

 

ジェンダーギャップの根は深いというか、ほんと潜在化してこびりついてるなぁと思った。

 

「(女性が社会で認められるのが)難しいんだってのがよくわからないな。むかしはそうだったかもしれないけれど、いまは違う。いまじゃ女性にとっては何もかも申し分ないじゃないか」と、聡明で進歩的な知人でもそういう思考停止なことを言ったと本書にあるが、気を付けなければ。

 

思うのだけれど、「私は女性の味方ですよ」とか言う人ほど、自分たちが受け入れやすい範囲でのみ女性の地歩を認めて、結局はジェンダー差をより潜在的に固着させようとするやっかいな敵だったりするんじゃないのかな、、とか。ちょっと滅裂だけれど、本書を読みつつそんなことを考えた。

 

一番なるほどと思ったのが、男性について。

 

男の子の育て方では、「男の子の人間性を抑圧しているのです。私たちは男らしさを「とても」狭い意味に考えています。男らしさが固い小さな檻になって、この檻のなかに男の子を閉じ込めているのです」。そのことで「彼らに「極めて」脆いエゴをもたせてしまう」。

 

これは田中俊之先生による「男性学」の領域で、いわゆる「男はつらいよ」問題が挙げられている。男らしさというマッチョイズムの檻に自らを当てはめようとして、自殺率を高める男性の姿が描かれている。日本でもナイジェリアでも同じなんだなと思った。

 

ユニークなのはその後。「そうしておいて女の子には、もっと甚大な危害を加えています。男のその脆いエゴの欲求を満たしてやれと彼女たちを育てるのですから」。

 

男はつらいよ」問題についてはいろいろと考えながら、それが女性への抑圧とどう連動するのかはほとんど考えてこなかったので(ただ単に僕の思考力が貧相なだけだろうが)、これは目鱗だった。

 

「男らしさ」という檻に押し込められた男性の自我のゆがみが、女性への抑圧を引き起こすというのは確かにと思いいたることがある。それでは、やっぱり「男性学」アプローチはすごく大事なのかなと思うし、男性側からやれることは数多い。

 

潜在化してこびりついたジェンダーギャップ解消のために、「男らしさ」をどこまで解消できるのか、取り組んでみても面白そう。

 

最後に、タイトルが「男も女も~」となっていることが気にくわない、という人がいるだろう。英語タイトルは『We Should All Be Feminists』なので、男も女もない。まあ日本語題としてキャッチーにしないとという配慮なので、理解したい。

 

大事なのは本書内でしっかり、性別は関係ない、「ジェンダーについては今日だって問題があるよね、だから改善しなきゃね、もっと良くしなきゃ」という人がフェミニストだ、そしてそれはみんなじゃなきゃ、と書いてあることで、男だ女だを超えた人間を見据えているのだなとわかる。

 

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの小説、買ったけど読んでないんだよね、読まないと。。

 

『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(河出書房新社)。

 

男も女もみんなフェミニストでなきゃ

男も女もみんなフェミニストでなきゃ

 

 

 

 

生産性を下げよう

人事イベントで、生産性についての示唆が2つあった。

 

一つは、生産性とは、働く人が機嫌よく仕事オモシロいなぁと感じて働く度合いでいいのかな、ということ。それを企業の業績に連動させることは経営やマネジメントの領分で、それを戦略人事というのだろうと思った。

 

もう一つは、高橋俊介先生のお話しから。上記と定義を異にして生産性を成果や業績で測るいわゆる生産性とするなら、生産性向上とは短期的功利性をより求めることとなり、正解主義・答え教えて症候群を助長する。変化の時代にそれでよいのか、ということ。

 

NPOなどのソーシャルセクターで仕事をしていると、このことは強く感じる。

 

社会課題の最前線での仕事は、正解がないし、ゴールもない。何が正しいのか、正しくないのかわからない。課題がいつ果てるのかわからない。答えだと信じて行うことが、反作用で人を不幸にすることもある。やり続けても、一瞬で無に帰すこともある。

 

そして何で効果測定していいのかわからないことも多い。ある地域で売買される子供の数なら数えられるけど、マイノリティのエンパワーメント指数なんてどうやって測定するのやら。

 

 正解主義・答え教えて症候群とは対極の世界。

 

いわゆる生産性とは程遠い世界で、ソーシャルセクターで尽力する人たちは(僕を含め)活動していると思う。それでも、この道が目指すものへ通じる道だと、生産的だと、信念をもって続けている。

 

こんな一寸先は闇の領域に、正解主義の人、高い生産性とか圧倒的な成功体験とかが好きな人が入り込んできたらどうなるか。

 

僕が属するEDAYAは、フィリピンの山岳少数民族の文化をモチーフにしたアクセサリーを作り販売しつつマイノリティのエンパワーメントを目指すという実にわかりにくい活動を行うが、学生のインターンを定期的に現地に派遣してきた。

 

まあEDAYAの一員になりたいという子たちなので、単純な正解主義などとは程多いチャレンジングな若手たちだけど、正解もゴールもない世界で自分で道を選択するということにはあまり慣れてはいない子がほとんど。

 

一応、フィリピンに出発する前に課題とゴールは与える。イベントの開催とか、資金集めとか。じゃないと何をしに行くかわからなくなってインターンの体をなさないから。だけど、現地で活動するなかで上手くいかないことがほとんど(というか100%)。

 

日本側のメンターとして、インターン生が行き詰ったときに面談をするのは僕の役割なのだけど、その時にはじめて、僕たちが取り組んで着ることは正解もゴールもない活動なこと、上手くいったかいかないかなんて誰にもわからないこと、それでも自分でこれが一歩だと思うことを信じてほんの少しでもやり切ってほしいということを伝えている。

 

成果とか業績にはこだわわらない、とっても生産性の低いメンタリングだと思うが、こんな経験や話しから何かを得て、その後自分のキャリアを主体的に選び取ろうとする生き方をしてくれる子が多いのは嬉しい。

 

ある種の失敗体験を経て、マインドセットして正解もゴールもない世界で何かに取り組む思考を身に着ける経験は、とても大事なんじゃないかなと思う。

 

それは、意図的に生産性を下げる経験なのかもしれない。

 

ソーシャルセクターでは、と書いたけど、別にビジネスの領域でもなんでも、世界には正解もゴールもなく、常に早く変化し続けている。その中で、その時点での正解だけを求めて短期的功利性に根差した生産性向上に重きを置き続けたら、変化についていけずに生き残れないだろう。

 

組織の多様性も同じようなものだ。短期的功利性で判断するなら、多様性などない単一の組織のほうが成果が出る。生産性が高い。でも変化にしなやかに対応して長く生き残るには、生産性を下げて多様なチームを作るしかない。

 

生産性を下げる勇気をどれだけ持って、実践できるかが、企業にとっても個人にとっても、社会にとっても、これからとっても大事なのかもなと思う。そして、生産性の低い活動をがんばりたいな、とも思う。

 

ま、冒頭のように生産性を働く人が機嫌よく仕事オモシロいなぁと感じて働く度合いと定義して、それをガンガン向上させられるのが一番ですけどね。

 

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ニートな日からの10年。『俺たちの仮面ライダーシリーズ 電王 10th ANNIVERSARY』

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仮面ライダー電王が10周年ということでムックが出ており、つい買ってしまった。

 

10年前は人生のどん底で、世間から逃避したニートからようやくコンビニのにーちゃんのフリーターへ社会復帰しだした頃だった。

 

毎週日曜日の朝は、朝食を買ってつきあっていた女の子のマンションに行き、彼女のベッドにもぐりこんで電王を見た後、テレ東のアニメ『おねがいマイメロディ』を見ていた。そして彼女が化粧をするのを眺めて、一緒に駅までいって出勤する彼女を見送って、そのままぶらぶらと秋葉原まで2時間くらいかけて歩いて、まだ猥雑ににぎわっていた歩行者天国を見て、またぶらぶらと歩いて帰宅していた。

 

まったく先の見えない野良犬のような暮らしだったけど、そこここに小さな幸せはある日々で、もう戻ることはないけど懐かしくはある。

 

仮面ライダー電王に出てくるゼロノスという2号ライダーがことのほか好き。極めて悲惨なライダーで、他のライダーシリーズをあわせても最も好きだったりする。

 

変身することで自分を知ってくれている人の記憶を消費してしまい、やがて誰にも憶えていてもらえなくなって存在が消えるという設定がまず悲惨で良い。さらにゼロノスは2人おり、大人のゼロノスは愛する妻と子と世界を守るため一人戦うものの敗れ力尽き、過去にとんで(電王はタイムパラドクスもの)若い自分に無理やり仮面ライダーとしての役割を担わせる。いくら自分自身だからといって、何も知らないかつての自分にそんな重荷を背負わせるのはずいぶん乱暴だなぁと思う。

 

物語に出てくるゼロノスは主にこちらの少年のゼロノスなのだけれど、いきなり未来の自分があらわれて世界が云々と意識高い系の話しをされて、自分の存在を消費しながら戦えといわれて、請け負ってしまえるのかどうか、実に不思議だった。そして引き受けてしまった故の悲惨がまた良かった。

 

電王を見ていたときの自分は世間からの逃避の真っただ中で、数年前までは世の中に対して大志も抱き、何かを成したいともがいていたけど、結局は力至らず大学も中退し、なにもしない人として生きていたので、ゼロノスの足掻きがなんとも心に響いた。

 

幸いなことに僕はそこから立ち直り、仕事をしながらもう一度世の中について何か働きかけようとし続けられるようになっていて、10年前とはまた違った気持ちでゼロノスのストーリーを見るのだけれど、仮面ライダーでも社会活動家でも、刀折れ矢尽きるとも一時ひきこもろうとも、しつこくやり続けることは大事だよねとは思う。

 

というか、やり続けてしまう人、やり続けてしまわざるを得ない人というのがおり、そういう人が本物なんじゃないかと思う。まあ仮面ライダーと社会活動家は別だけどね、当たり前ながら。

 

ムックは、まあ別に・・な内容で、怪人のデザイン解説とかは少し面白かった。ヒロインが消えるという電王で一番の謎については、ざっと読んだけど触れていない・・。

 

 

縁結びの国のエシカル

縁もゆかりもない土地で、縁もゆかりもない人たちと、縁もゆかりもない国で作られた服を着る。島根でのエシカルファッションショーを、そんな風にいうこともできるだろう。

 

正直なところ、僕自身ずっと腑に落ちないことがあった。なぜ島根なのか。僕たちがわざわざ東京から行く意味は。エシカルファッションは求められているのか。世界各地から作り届けられた服を持ち込む必要性は。そこにそれらしい解は得られず、「なんで島根でエシカルなの?」と聞かれれば、曖昧にニヤついて、ずっと蓋をしたままで、ファッションショーの準備を進めてきた。

 

答えは人の中にある。ショーを終え、キャンプ場のロッヂで飲み会をひらいているとき、ずいぶん雑多な人たちが集まったなとつくづく思った。エシカルファッションショーだけど、エシカルなんて関係ない。モデルや撮影が好きな人、ドライバーで旅行に参加して巻き込まれた人、自分の氏姓の由来を知りたい人、会社外の人とのつながりを持ちたい人。学生だ社会人だなんて微差で、それぞれが個々の価値観で、勝手な目的で参加している。同質性なんかない。

 

多様で、実に心地よかった。そんな雑多な、縁もゆかりもない人たちが、「島根でのエシカルファッションショー」という名目で集まり、なんだかとても仲良くなっているのが不思議で、面白くて、こういうのを縁結びというのかな、、と思った。

 

島根は、「縁結びの国」といわれる。そしてエシカルという概念の日本語訳を考えるとき、僕はこの「縁」という言葉がよいのではと思う。

 

何かとなにかが、明確にではなくてもつながっていることを縁という。エシカルとは、まさにこの縁を意識することだろう。あなたの服が、インドの綿農家やバングラデシュの縫製工場とつながり、そこに生きる人の暮らしと一つになっているという縁。あなたの携帯電話が、コンゴの鉱山や中国の機械工場とつながり、そこで働く人の営みと一つになっているという縁。さらに、その服や携帯をどう使い、いつか捨てることで、未来のどこかの誰かにつながっていくという縁。そんな縁を折々に思いおろそかにしないことがエシカルだと思う。

 

エシカルを身近な価値とする人は、縁を感じ取れる人、縁結び力の強い人ではあるまいか。

 

そう思い至れば、「縁結びの国」島根で、エシカルを発することの意味合いも見えてくるように感じた。縁もゆかりもないと思っても、意外と縁は結ばれてるものだよ、私とあなたと世界はつながっているものだよというエシカル体験≒縁結び体験を届けるため。それが「なんで島根でエシカルなの?」の答えと思う。

 

「縁起」という言葉がある。信貴山縁起のように、ものの起こりを伝えるストーリーのことでもあり、縁起物のように吉凶を伝える運勢のことでもある。僕はエシカルの日本語訳が「縁」なら、エシカルファッションの日本語訳は「縁起のいい服」であると思う。

 

かかわる人にも自然にもよい服は、よいストーリーを、よい縁起を持っている。そんな服を着ることは自分を健やかにすることだと思うし、日常に吉兆を与える縁起の良さを身に纏うことだろう。

 

縁もゆかりもない縁結びの国で、縁もゆかりもない人たちと、縁もゆかりもない国で作られた縁起のいい服を着ることで結ばれる何かを紡ぐ。そう考えると、島根でのエシカルファッションショーは実に面白く価値ある企画だった。たくさんのブランドさん達から数えきれない縁を集めて、島根の皆さんにも新聞等を通じて発信がなされて、ともに旅した人たちにも縒り合わさるものがあって。。そして何が紡がれるのかは、まだこれからのお楽しみなのだろうけど。

 

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島根での「エシカルファッションショー ~水の国ランウェイ~」まであと数日!

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島根でエシカルファッションショーをやりたい、と柚木理雄さんから話されたのが昨年の秋。え~っと思って、だって島根だし、ファッションショーって楽しいけど大変だし、正直あまり乗り気ではありませんでした。

 

仮にやるなら、企画力実行力があってエシカルのわかる学生団体と協働で、とかじゃないと無理・・と思っていた10月の末。田才諒哉さんによる国際協力カフェがあり、そこでEDAYAと一緒になったのが、学生団体S.A.L.・To2Bagの植松美里さん、藤岡咲季さん。

 

To2Bagは僕も使っていて団体も知っていたものの、力量はわからんなぁ・・と思ったので、小安美和さんのWill Galleryに連れて行ったり、エシカルペイフォワードで販売したり、で話しをしていると2人ともなかなかの傑物で、これならと島根の相談をしたところ、一緒にやると言ってくれて、ファッションショーは動き出しました。

 

島根への旅行の計画から固めて、ファッションショーの企画へ。S.A.L.のエシカルジュエリーチームも加わって、ブランドさんへの声がけとともにモデル(≒旅行参加者)集めへ。順調ではないものの着々と進んできて、2月。

 

やや困っていました。ショーに使う服とモデルが集まりつつあっても、それをどうコーディネートしていいのか、誰に何を着てもらえばいいのか、ショーをどう構成するのか、途方に暮れてしまう。。

 

そんな折、藤本高史さん、河村慎吾さんの企画からアフリカの花屋で廣瀬奈緒さんに出会い、この人!と思って素早く口説いてメンバーになってもらい、コーディネート~構成まで献身的に引っ張ってもらうことに。彼女は天恵だと思っています。

 

Mami Mimifaceさんにメイク講座をやってもらったり、昔馴染み堀越詩帆さんの助力からReadyforでクラウドファンディングを立ち上げたり、夕刊フジに載ったり、ドライバーさんを探したり・・・いろいろありました。柚木さんのLittleJapanもオープンしたし。

 

今日、お借りする服・アクセサリーのほとんどが届いて、リハーサルをして、やっとファッションショーができる実感が湧いてきました。でも島根に行かないとわからないことも多く、顔を合わせられないモデルもおり、7割状態で現地に行き、出たとこ勝負かなと思います。

 

「経営課題を人で解決する」というのが僕のポリシーですけど、非現実的と思ったプロジェクトでもタイミングよく人が集まれば実現するものだな、、とつくづく思います。

 

エシカルファッションショー ~水の国ランウェイ~がどうなるのかは5月3日のその場にならないと全くわからないのですが、参加するみんなが存分に楽しめる下地はできたかなと思います。ご協力いただくブランドのみなさま、本当にありがとうございます。

 

連休中もし島根・江津市にいる方はぜひ見に来てください。あとクラウドファンディングもあと少し、ご協力お願いします!

readyfor.jp

(別儀ながら写真を見て、これ両手に花どころじゃないな・・と思った。。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ラナ・プラザの後でファッションを語らないのは野蛮か

GWに島根県エシカルファッションショーをやることとなり、コレクションの動画などをよく見ている。思うのは、ファッションと文学は似ているな、、ということ。

 

アダムとイブが手にしたイチジクの葉以来、人は服をまとい続けている。地域や時代による違いはあれど、服の基本は変わらない。そして有史以来いかほどの服が着られてきたのか、数えることもできない。ファッションは、服を意図をもって着ることで、文化としたもの。あまりに多くの服が着られてきたので、ファッションも出尽くしてしまったのではないか、と思ってしまう。モードの世界でどれほど目新しいコレクションが出ようと、それは今までに着られ尽くした服から切り口と味付けを変えただけではないか。僕はかつてアントワープ6に夢中になったが、果たしてそこに真のオリジナリティはあったのか。

 

文学も同じ。プロメテウスに教えられて以来、人は言葉を発し続け、有史以来いかほどの言葉が語られたか数えようもない。文学は、言葉を意図をもって語ることで、文化としたもの。あまりに多くの言葉が語られたので、文学も出尽くしてしまったのではないかと思う。世界中で1日にいかほどの詩や小説が紡がれるのか知らないが、果たしてそこに真のオリジナリティはあるのか。

 

ファッションと文学は似ている。着られ尽くし語られ尽くしたものの上に、現代を生きる私たちが重ねるものなど、ないのではないか。人の営みなど、虚しい。

 

1996年にノーベル文学賞を受賞したポーランドの詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカの受賞記念講演が好きだ。シンボルスカはこの虚しさに真摯に向きあう。旧約聖書『伝道の書』の伝道者は、「太陽のもと、新しいものは何ひとつない」といったという。人の営みの虚しさを知る人なのだろう。シンボルスカは、柔らかに伝道者へ反論を伝える。どれほど巨大で果てしなくとも、世界にはたくさんの驚きがあり、あなた自身も太陽のものに新しく生まれてきたのではないか、と。

 

「一語一語の重みが量られる詩の言葉では、もはや平凡なもの、普通のものなど何もありません。どんな石だって、その上に浮かぶどんな雲だって。どんな昼であっても、その後に来るどんな夜であっても。そして、とりわけ、この世界に存在するということ、誰のものでもないその存在も。そのどれ一つを取っても、普通ではないのです。」

 

エシカルファッションに関わっていて、虚しさを感じるときがないわけではない。どんなに人に、自然に、未来につながる優しさがあっても、しょせん世界にとって微差でしかなく、それでも服を送り出すことに意味はあるのか。この世に服は溢れているのに。しかしシンボルスカに励まされながら、「一枚一枚の重みが量られるファッションの服」を広めることで、太陽にもとに新しい何かを生み出そうとすることが、僕の務めなのかと思う。

 

その上で。

 

ファッションと文学の類似を思うとき、のしかかるのはアドルノの言葉である。

 

アウシュビッツの後で、詩を書くのは野蛮だ」とフランクフルト学派の思想家、テオドール・アドルノは言う。難解な公案。人の営み、文化がナチスを生み、アウシュビッツを作ったのであれば、文化の粋たる詩はいかような詩であってもナチスと同根であり、その根本が改まらぬままに書かれる詩は野蛮である、というのがわかりやす解釈であろう。

 

ファッションにも、これは言えないか。文化や経済がファストファッションを生み、ラナ・プラザを作ったのであれば、文化や経済の粋たるファッションはいかようなファッションであってもファストファッションと同根であり、その根本が改まらぬままに着られるファッションは野蛮である。そう言えないか。エシカルだろうと何だろうと、服が作られていく構造は同じなのだから。

 

もう一度シンボルスカにすがる。アウシュビッツの後で、ポーランドの民として、詩を書いていた詩人ならどう反駁するだろうか。

 

僕が最も好きな『現実が要求する』という詩がある。世界中の悲惨な戦闘が行われた地名を挙げつつ、そんな地でも人々の生活は続き、ささやかな日常の喜びだってあることを詩人は詠う。

 

「現実が要求する これも言っておくようにと 生活は続いていく それはカンネーやボロジノの近郊でも コソヴォの野でも、ゲルニカでもおなじこと」「ヒロシマがあるところでは またもやヒロシマが繰りかえされ 日用品がたくさん製造される」「悲劇の峠で 風が頭から帽子をもぎとる それはしかたのないこと それを見てわたしたちは笑ってしまう」

 

ヒロシマで製造される日用品には、詩も、服も含まれる。文化や経済の根本はそうは変わらない。悲劇は繰り返されるだろう。「この世には戦場のほかの場所はないのかもしれない」。それでも現実は続いていくのだから、そこで生まれる驚きを、太陽のもとの新しいものとして詩にしていくことが詩人の務めだと、シンボルスカは伝えていると思える。戦場に覆われたとしても、それに屈さない人の美しさや世界の尊さだってあるのだと。

 

「この恐ろしい世界には魅力がないわけではないし 起きるに値する朝だって あることはある」

 

ラナ・プラザはなくならないだろう、繰り返されるだろう。アウシュビッツが姿かたちや規模や手口を変えて繰り返されるように。その野蛮に与したくないのなら、アドルノの言うように口を噤むのも良い。しかしだんまりを決めこんでも野蛮はなくならないのなら、野蛮を忘れぬままに、それでも屈せぬ美しさを語るべきではないか。

 

だから、ファッションをもっと語ろう。ラナ・プラザがなくならなくても、ファッションにはそれに屈せぬ美しさがたくさんある。その服が何で作られ、誰がどこで作り、どう売られ、どう着られるか。ファッションとして、どのように自分や周りの人を浮き立たせるか。

 

エシカルファッションとは、別にエシカルブランドの服のことではない。このような、ちゃんと語ることのできるファッションのことだと思う。

 

2017年4月24日、ファッションレボリューションデーに言う、ラナ・プラザの後でファッションを語らないのは野蛮だ、と。

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20年目の『終わりと始まり』

一番好きな詩集、ポーランドノーベル賞詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカの『終わりと始まり』。人に勧めたのを期にまた手にしているけど、97年の初版だからもう20年も読み続けていることになる。


戦争の悲惨があった土地名を連ねながら、それでもその上に人はささやかな日常を積み重ねることを詠う『現実が要求する』という詩を、何度読みかえしたことか。挙げられた地名にアフリカやアジアはないが(ヒロシマだけ)、今ではルワンダやコンゴ、シリアやカチン州を思わずに読むことはできない。

 

巻末のノーベル賞授賞講演がなにより好きで『伝道の書』にある「太陽のもと、新しいものは何ひとつない」というテーゼへの反駁は幾度もよすがとしてきた。

 

震災の後で、この詩集にひかれる人が増えたらしいが、生老病死や争いや愛という人の営みが消えない限りは色褪せない本だと思う。

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