耽典籍:エシカルと仏教と自らを慈しむこと。『愛する』ティク・ナット・ハン(河出書房新社)

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仏教哲学とエシカルはかなり近しく、中でもティク・ナット・ハンが説くインタービーイング(相即/相互共存)は本質と思えて幾冊か読んでいる。

 

初夏にでた新刊『愛する』は、題のとおり愛について平易な文章を集めた本で読みやすい。が、男女の愛はごく一部で広い思いやりや、何より自分自身を省み慈しむことが説かれていて、学びは深い。

 

特に「無我」という章は核心と思う。

 

「「私」という孤立した存在はないのです。」「一人では存在できません。すべてのものと関わりを持ちながらここにあるのです。「私」とは、地球・太陽・両親・先祖といった、私でない要素のみによって成り立っています。」「あなたと愛する人の間にある、この関係性を理解するとき、愛する人の苦しみはあなたの苦しみであり、あなたの喜びは愛する人の喜びであることがわかるでしょう。このような見方ができるようになると、自然とあなたの言動は変わり、自分と相手の中の苦しみを和らげることができるようにもなります。」

 

私と社会とが空間的時間的につながり続けること、故にその影響に思いを致すこと。相互共存。その認識をエシカルの本質とするのなら、わかりやすく受け入れやすく説かれた短文としてこれほどのものもない。

 

マインドフルネスに興味があり、ティク・ナット・ハンの本を手に取る人も多いだろう。思うに、説かれているのは自分自身を、さらにいえば自らの負の感情を認め慈しむことである。

 

このことは『和解』(サンガ)に詳しいが、自分以外の何かと和解する話しかと思いきや、自身が押し込めてきたネガティブな感情(インナーチャイルド)と和解することが説かれていて驚いた。

 

『愛する』では「友情」という章が近い。

 

「あなた自身の良い友達であってください。あなたが自分自身の良い友達でいられれば、あなたの愛する人の良い友達にもなれるのです。

 

慈しむ、という言葉についてはもっと考えなければいけないと思っている。『愛する』では慈愛という言葉が使われているが、慈悲と慈愛はどう違うのだろうか。慈愛はキリスト教が用い、慈悲は仏教が用いるイメージがあるが、それは浅薄すぎるのだろう。

 

ベトナムの高僧だがフランスに亡命し暮らすティク・ナット・ハンはキリスト教にもあかるく、二つの宗教を行き来しながら人や社会の哲理を説く書物もある。注意深く読んでいれば、慈愛と慈悲についても書かれているかと思う。

 

そんな一冊『生けるブッダ、生けるキリスト』(春秋社)の新版も同じく初夏にでたので読み進めているが、こちらは平易な言葉で書かれているとはいえ引かれる教養の幅がとても広く、考えをよくよく巡らせながらしか読むことができないので、なかなか読了しない。が、すさまじく面白い。

 

いずれにせよ、エシカルについて考えるうちにこれ仏教じゃない?ということが度重なるので、最近はお坊様の話しを聞きにいったりしているが、あいつスピリチュアルづいちゃったんじゃないの?とか思わないでね。

 

『愛する』ティク・ナット・ハン(河出書房新社)。

 

愛する:ティク・ナット・ハンの本物の愛を育むレッスン

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