『買われた』子を包摂できる職場づくりを。「私たちは『買われた』展」

「私たちは『買われた』展」を見てきた。

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仁藤さん、稲葉さん(Colaboの稲葉さん)のがんばりに頭が下がりつつ展示を見ていて感じたのは、「自分たちのことを知ってほしい」という声の切実さ。

 

「売春」を経験した子たちの、生い立ちや暮らしぶりや、そこへ至る経緯や、これからを語る声が数多く集められて展示されているが、「企画を知り、誰かに少しでも自分の境遇を知ってもらえたらと思って参加しました」というようなことを、何人かが書いていた。

 

マヌケかもしれないが、それを読んで「ああ、やっぱり知ってほしいんだ、じゃあ知らなくちゃ」と思った。

 

知られなければ、いないと同じ。いない存在として扱わないで、という切実な願いを感じたし、小さな声であろうその願いを拾い集めている仁藤さん、稲葉さんの地道な活動のたまものだとも思った。

 

思ったことはあと二つ。

 

声を寄せていた子たちは、家族になんらかのトラブルがある子が(やはり、とは言いたくないが)多い。でもだからといって、「やっぱり家庭が大事ですよね。両親揃っていないとね。ちゃんとした親の元で子供は育てないと。」みたいな発想をされたら、イヤだなぁと思う。

 

家制度の復権が大事、みたいに考える人がいたら、イヤだなぁ。

 

いいじゃん、一人親でも、親がいなくても、親がアル中でも犯罪者でも、外国籍でも同性婚でも。家族のあり方なんて、もっとバラバラでいいし、トラブルがあったっていい。どんな家族に産まれても、子どもが育つ中で、各ステージごとにその子が多様な選択肢を選べるような社会でありたい。

 

もう一つ。『買われた』という表現は、ちょっとした物議らしい。

 

選択肢は、とても大事。ある選択肢を知らなかったり、自分は選ぶことができないと思い込んでいたり、選んでも無駄と思ったり裏切られるから選ばない方がマシと思ったりして、人は選択肢を失っていく。そして残された選択肢を取る。

 

それは主体的に選んでいるようにも、見える。果たして・・。

 

働き方・就労の分野に関わっていると、この選択肢の問題はよく出くわす。(売春だって就労だ。)働く側と、働かせる側と働かせる社会がフェアトレードな関係では全くないとき、『買われた』という表現にならざるを得ないんじゃないかな、と思う。

 

展示会を見た後で、ご自身で何かできることはありますか?という質問がアンケートにあった。職場のダイバーシティインクルージョン、なんてことに関わっている身として、売春やさまざまな苦労を経た子が、少しづつでも足元を固めて階段を上って社会のなかで働こうとするときに、受け入れられる職場をもっと作りたいなと思い続けている。それは流通小売りや飲食などの現場であることが多いと思うけど、多様な背景(別に売春だけでない)を持つ人たちが安心して安定して働ける職場、『買われた』子を包摂できる職場は、きっともっと増やせる。

 

大学中退してニートもどきをやっていたけど、そんな背景を受け入れてくれてたくさんの階段をもらえた身としての恩送りを、そうやって果たしたい。

 

展覧会は今週末、21日までです。