耽典籍:イエ制度という亡霊と、息子の他者性と。『家族幻想 ー「ひきこもり」から問う』杉山春(ちくま新書)

『ひきこもることも、不登校も、命がけのクリエーション(創造)だ』という一節が心に残る。

 

異論もあるだろうけど、僕自身も大学を中退し、あらゆるものから逃避していた時、それは単なる逃避ではなく生きるための術だったと思う。命がけの。

 

「ある母親は、ひきこもっている息子を殺すか自分が死ぬかというときに、子どもを置いて逃げることができた、それは生命力だ。」。異論も批判もあるだろうけど、一つの真実だと思う。

 

『家族幻想 ー「ひきこもり」から問う』杉山春(ちくま新書)。

家族幻想: 「ひきこもり」から問う (ちくま新書)

家族幻想: 「ひきこもり」から問う (ちくま新書)

 

著者の家庭の物語、特に不登校となった息子さんと周囲の人々の物語を中心としつつ、何名ものひきこもりの方の人生とその家族が描かれる。決して明るくも、解決策が見いだされるものでもない。でも、否認や黙認(by坂爪真吾さん)でごまかすことはせず、様々なケースを知って、何が人を苦しめているのかを探りながら容認をすることは大切だと思う。

 

著者は、ひきこもりを、「自分が生きられない「規範」で自分をジャッジして自分を切り刻んでしまう」精神的な現実、と表現している。僕はひきこもりとまではいかなかったけど、ニートしていた頃のことを考えると・・・どうだろう。自分が生きられない、生きたくない「規範」からの逃走、だったとは思う。

 

そして、イエ制度を人を縛る「規範」を多く与えるものと狙いさだめて、あぶり出そうとしている。ひきこもり当事者だけでなく、その親世代の物語も描くなどの工夫も、説得力がある。

 

イエ制度は、今や日常会話のなかにも登場しない古臭い考えのように思えるが、巨大な亡霊として日本を跋扈しているかに見える。

 

芸能ニュースからも、イエ制度という亡霊の存在は感じられる。

不倫とか、ブラック企業とか、LGBTとか、ポリアモリーとか、DV性・犯罪とか、女性活躍とか、介護とか、男性の過労死率・自殺率とか、いろいろな課題を話題にするとき、この亡霊はそっと背後にいる。

 

でもイエ制度は巨大な相手。この本だけでは、まだまだ肉迫してるとは言えないな、と思った。各方面から、継続的なアタックが必要かと。

 

「規範」ということでいうと、「これからの「規範」はさまざまな出会いのなかで、常に新しく創造=クリエートしていくものかもしれない。」と書かれて、社会とのつながりの中で主体的に自らが生きやすい「規範」を作り出すことが言及されている。これは、「キャリア」と同じだと思う。

 

与えられるものを選らび、縛られるキャリアではなく、社会変化の中で自律的に創っていくキャリア。言うは易く行うは難しですが。

 

感動的なのは、不登校の息子さんのエピソードの中で、「成長する力を私たち大人は信じましょう」と言われて「息子の他者性を意識した」というところ。

 

ひきこもりの子供が社会にもう一度出られるかは、本人の問題であって、親をはじめとする他者がどれほど騒ぎ立ててもしょうがない。親だからと言って、もしくは支援という名で、良かれと思って人の首に縄をつけようとしてしまうことがあるけど、そんなことをしても人は動かない。強制労働じゃないんだ。

 

僕の幸せは、僕が逃避の時期を過ごしていた時に、両親が特にうるさく言わずに見守ってくれていたこと。だから逃避の時期を雌伏の時と思って、しかるべき時がきたらまた自分から社会に出ていくことができた。

 

息子の他者性を、両親は理解してくれていたのだと思う。まあ、聞かん坊だったから。