ヴァルネラブルな世代
ヴァルネラブルということを考えている。
新幹線で刺殺された方は、まったく同じ時に同じ大学で時を過ごした方で、机を並べた知人もいるらしい。
事件にあうのは偶然で、怖いね、運だよね、何と出くわすかわからないもんね、と人々は言う。
そうだろう。でもそうだろうか。
大江健三郎の小説には、「ヴァルネラブル」という言葉が出てくる。“Vulnerable” 、脆弱さや傷つきやすさ、攻撃されやすさのことだという。
贖罪の羊のように。
大江の小説では、ヴァルネラブルな人々は社会の歪みや矛盾を引き受け、不寛容さを浴び、人間的な脆弱さをさらけ出してアンチクライマックスな崩壊を迎えることが多い。
そんなヴァルネラビリティーを描くのが大江健三郎の文学だと思う。そして大江のいくつもの作品では、ヴァルネラブルな人の類型が探られてきた。
答えはない。でもヴァルネラビリティーは偶然ではなく、世代や、年齢や、環境や、職業に大きく影響されるのではないか、と思う。(大江はミドルクライシス・中年の危機をよく挙げていた)
飛躍していえば、僕たちは「ヴァルネラブルな世代」なのではないか。
ヴァルネラブルなことは、悪いことではない。ヴァルネラビリティーは、可塑性、可変性、共鳴性、協調性などにも通じる。
社会起業家というものが、ソーシャルセクターに身を置き社会のために何かをしようという動きが、したたかな足腰をもって立ち上がったのは今の30代半ばの僕に近い世代だと思う。
冷戦終結やバブル崩壊や阪神大震災やオウムや神戸の事件や、年齢別に出来事をひもといて世代論をするつもりはない。でももし、僕たちがそんな世代史によりヴァルネラビリティーを負っていたとしたら、その脆弱さをお互い補填しあおうと、社会に向けた目を育んだのは当然なことだろう。
ヴァルネラブルであるのなら、これからも何かの形で贖罪の羊が出るのだろう。でもその脆弱さを恐れず、むしろ依り代として、後生にもヴァルネラビリティーを伝えられるようでありたい。ヴァルネラブルな人々を認め合えるようでありたい。
そんなことを思いました。