ダンス舞台『nulde』とレギオンとダイバーシティ

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レギオンとは一人でも大勢の悪魔だという。人にとりつき墓場に住まい裸で凶暴な自傷をつづけていた。イエスを畏れて人から離れ、二千頭もの豚にとりついて崖から落ちて湖で溺れ死んだと、 マルコによる福音書に記される。

 

飛澤初音さんが出演されるコンテンポラリーダンスの舞台『nulde』を観て、ふとそんなレギオンのことを考えていた。

 

舞台は、群舞ながら一人の踊りを表しているように感じた(観た人にしかわからないような感想だけど)。個の獲得と喪失と錯綜と再認みたいな葛藤が表現されているように、僕には解釈が浮かんできて、大勢だけど一人だなぁと思えた。

 

あくまでも僕の解釈であり、そもそもコンテンポラリーダンスや表現そのものの芸術に解釈は必要ないのかもしれないけれど、伝わってくるものが多くていろいろな感情が湧いてとても面白かった。

 

人事では、ダイバーシティという言葉がバズワードになっている。いつも主張するのは、「外なるダイバーシティ」ではなく「内なるダイバーシティ」を見つめる大切さ。

 

俗っぽい説明をすると「外なるダイバーシティ」とは、同質である自分たちの外から異物を連れてくるという発想。女性や、障がい者外国籍LGBTを採用してダイバーシティと呼びましょう、というような行いといえる。

 

対して「内なるダイバーシティ」は、同質と思っていた自分たちでも多様な違いがあり、それを認め活かしていこうという発想であり、さらにいえば個人の中にも多彩な人間性があり、そのさまざまな自分をさまざまな場所に結び付けていこうという取り組みといえる。

 

人のなかには一人ではなく大勢の「何か」が埋まっている。取り出せば二千頭の豚にも相当するような「何か」が(いや、豚だって複雑な内面を持っているだろうけど)。

 

そう考えると、人は誰しもがレギオンを宿しているのかもしれない。

 

「内なるダイバーシティ」に取り組む人は、他人や自分自身のレギオンと対話をすることになり、なかなか危うい、だからこその楽しみもある仕事だなあと思う。一方でダイバーシティを嫌い、同質性や画一性のなかに逃げる人も多くいるけれど、そりゃ悪魔との対話なら怖いよな、、と少し理解もできる。

 

・・なんて徒然に思わせてくれる面白いダンス舞台『nulde』。明日11月5日まで、日暮里d-倉庫です。(完全に宣伝協力です。)

 

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