耽典籍:見えないマイノリティが組み合わさり支えあう。『ジニのパズル』崔実(講談社)

『ジニのパズル』崔実(講談社)。

ジニのパズル

ジニのパズル

 

 

在日コリアンが主題ではなく、見えないマイノリティについて書かれた小説だと思った。

 

小説は、朝鮮学校に通う主人公が学校への違和感を深めていくうち、北朝鮮によるミサイル発射があり、チマチョゴリを着て登校していると暴行を受け、思い至り学内の金日成・正日の肖像を投げ捨てるという筋立て(雑な要約だけど)。朝鮮学校へ通う日々のリアリティが評価された作品と思うが、書きたいことはそこではない気がする。

 

冒頭の章が「そこに、いない」と題されていて、主人公が転校したアメリカの学校にいる普段は存在感がないのに突然暴れ出す、発達障害気味の生徒について触れる。次いで「靴」と題し、誰もが違う靴を履いている描写があり、続くのは聴覚障害を持った友人との対話。

 

在日コリアンというマイノリティ性が、相対化されている。

 

見えないマイノリティというのは、外観からはその人の特性がわからないマイノリティ性のあり方、と言ってよかろう。複雑な国籍だったり、LGBTだったり、聴覚障害だったり、発達障害気味だったり、病気に罹っていたり、トラウマを抱えていたりと、マイノリティとしてのあり方も一様ではないし、誰もが何らかの特性を持つと考えれば、あらゆる人が見えないマイノリティと言えるかもしれない。

 

そんなさまざまな見えないマイノリティが、互いを相対化しながら組み合わさって支えあって、というイメージを作者は伝えたいため、冒頭の50ページを置いたのではなかろうか、と思う。

 

題名にあるパズルというのも、その暗喩に思える。パズルのピースは、ばらばらな色・形をしている。それらが組み合わさり、面として互いを支えることで、ピース一つでは描けぬ絵ができる。

 

ダイバーシティインクルージョンというお題目をまた持ち出したくなってしまうが、ま、そういうことだろう。

 

小説で嫌悪されるのが、金日成・正日の肖像。これも、金体制への批判もあるだろうが、何らかの暗喩と思う。

 

ダイバーシティ云々という活動をしていて眉をひそめざるを得ないのは、マイノリティの中での同調圧力だったりする。女性活躍的な集まりでも、ときどき感じる。妙なキラキラをまとった同調圧力

 

マイノリティ側だっていろ~んな人がいるし、誰もが見えないマイノリティ性を抱えるなら、それをくくるなんて不可能だ。

 

でも、マイノリティを糾合しようとする人はいるし、集めてワクにはめることで力にしようとする人だっている。

 

具体的には言わないが、マイノリティの集団で同調圧力を発揮する人が、それに従わない人に対して行うイジメを目にすることがあり、実に醜くて、かつウンザリする。

 

金日成・正日の肖像は、そんなマイノリティ内の同調圧力の暗喩ではないか。

 

最後に。小説は98年に北朝鮮テポドンを発射したことにより、在日コリアンに対する風当たりが強くなりチマチョゴリを着ていた主人公が暴行を受けるが、当時のことをよく思い出させられた。

 

98年の数年前から、チマチョゴリを着た学生へのイタズラ、というより犯罪が横行していた。同じ塾に通っていた人が、刃物でチマチョゴリを切られたことがあった。学生に罵声を浴びせ、缶ビールを投げつけている人を見たこともあった。

 

何もできなかったが、はらわたが煮えくり返ったことは忘れない。

 

僕は新大久保に住んでいた。日本というより、アジアの街。コリアンタウンは、そのようなことをされた韓国・朝鮮の人たちの憤りが充満しているかに思うときがあった。

 

ちょうどフランスW杯の最終予選があり、日本と韓国が同じ組で、死闘を演じていた。国立で行われた日韓戦。街は戒厳令下のようだった。韓国が逆転勝ちした翌日は、占領下のようだった。

 

でも、日本が七転八倒してたどり着いた韓国での日韓戦で日本が逆転勝ちして、韓国も日本もW杯に行けるんじゃないかな、となったときの街の雰囲気は、一転して妙に温かくて、お互いがんばろうという声が聞こえた。とても嬉しかった。

 

ああ、新大久保はいい街だなぁ、と思った。今でも、あの多様性というより混沌といった方がいい街が好き。

 

まだ冬ソナブーム前。新大久保がいまのように観光化されておらず、裏道では麻薬とかが平気で売られていた20世紀末の話。