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耽典籍:女、黒人、踊り子・・、詩というウィルスの現代日本への感染症状。『鏡のなかのボードレール』くぼたのぞみ(共和国)

美しく、深く織りなす本を読んだ。

 

『鏡のなかのボードレール』くぼたのぞみ(共和国)。

鏡のなかのボードレール (境界の文学)

鏡のなかのボードレール (境界の文学)

 

言葉はウィルスとして、人の脳に作用し、ものの見方を変え、行いを変え、在り方を変える。詩はウィルスのカプセル剤で、時を超え場所を超えて、たくさんの人に作用し、世界を変える。

 

文学は、何の役にも立たないという人がいる。それでも文学にかかわる人は、言葉のカプセル剤が世界に作用することを信じて詩を読み、学問としてその感染症状を探る。

 

なかには善きものとはいえないウィルスも、感染もある。

 

女、黒人、踊り子、詩人のミューズ、ファムファタル。ジャンヌ・デュヴァルという人を、見るための言葉はたくさんあって、どれもが自ら発せられた言葉ではない。

 

ものを見るということは欲望の発露である。対象をこのように見たい、そのことで自身の安楽を得たいという欲望。それは個人の欲望のときも、集団の欲望のときも、時代の欲望のときもある。

 

男、白人、フランス人、19世紀の人、詩人のシャルル・ボードレールがジャンヌ・デュヴァルを見て、愛で、記した、『悪の華』。たくさんの欲望が言葉となって甘美なカプセルに詰められている。

 

オリエンタリズム植民地主義、女性蔑視、職業差別、人種差別、調合された欲望は十重二十重。

 

そんなカプセル剤を、近代国家へと向かう日本が受容する。男たち、東洋人、日本人、19世紀~20世紀の人々、翻訳者(詩人・文学者・作家)の上田敏堀口大学西脇順三郎永井荷風らが、『悪の華』を読み、訳し、ボードレールの視線に憑依してジャンヌ・デュヴァルを見て、語る。その『悪の華』論は次代に読み継がれる。

 

時が下り現代。今の日本人には、ジャンヌ・デュヴァルをボードレールが見て紡いだ言葉のカプセル剤の、どのような感染症状が顕れているか。

 

そんなことを、解き明かした本。「人種主義を内面化した日本男性とそれを暗黙裡に支えてきた日本女性の意識の遺産。」という一文が重い。

 

繊細なバランスの上に立ちながら、見るものたちの織りなす視線を摘出し、その欲望を暴き揺さぶる本書は、推理小説じみて小気味よくも、ものを見るために人が寄って立つ前提段階をガラガラと崩し続ける。

 

なので、本書の感想は深く織りなす多くの人と時代の欲望が崩されていく美しくも流砂のような本だ、というしかない。下手に評すれば、何かを見たという欲望の発露をしたことになり、瞬間に流砂に飲まれる。

 

素晴らしい本だと思っても、こんなに感想を書くのが難しい本もない。しかもベンヤミンクッツェーまで射程にいれており、手に負えない。

 

読んでもらってともに流砂に飲まれてもらうしかないと思いつつ、印象的な個所を長めに引用。

 

「美しい響きをもち、豊かなイメージを喚起する詩篇を読むと、その響きの美しさゆえに、ことばのもつ魅力ゆえに、逆に、熱帯の国へのあこがれ、遠い南の島へのあこがれ、異国の、非西欧という観念としての「オリエント」を作り出した西欧近代、とついつい乱暴にくくってしまいたい衝動がわいてくるのを抑えきれない。その影となった者たちの存在に思いをはせることなく。」

 

「フランスという国の、ときのエリート層から落ちこぼれる白人男性詩人が、おもにアフリカ系女性を欲望の対象に描き出した詩篇群、それを噛み砕き、飲み込もうとしたとき若き日本の詩人たちは、みずからのエロスになにを許したのだろう。」

 

「拡大戦争のさなか、従軍慰安婦をめぐる日本男性の経験とその歴史認識(の欠如)がどのように尾を引いて、いまも深く、しつこく残っているか。アフリカ女性への欲望をぺ時の上で身をよじるようにして架空体験していた日本語読者たちの欲望が向かっていった先に思いをはせることは、この問題を考えるための鍵になりはしないか。それは西欧近代の思想や文化の内部に深く染み込んでいた人種主義をもまた、日本人が内面化した事実を考えることに繋がると思うのだが。」

 

くり返す。「人種主義を内面化した日本男性とそれを暗黙裡に支えてきた日本女性の意識の遺産。」という一文が重い。