耽典籍:人生のゲーミフィケーションはヒューマニズムの戦術か、イスラエルでも。『あの素晴らしき七年』エドガル・ケレット(新潮クレスト・ブックス)

うんざりするような現実もある。テロの続く戦時下のイスラエルではなおさら。

 

でも、ささやかで静かな生活がある。息子が生まれたり、妻にダイエットを勧められたり、仕事のためタクシーに乗ったり、父が死んだり。希少で、人間的な生活。

 

テロや戦争や政治や、経済やビジネスといった大きな物語は、ドラマチックかもしれないけれど、そこで人間は単位になる。大きな物語という、うんざりする現実と折り合いをつけながら、いかに人間として起伏ある、心ある物語を生きるか。その現代の実例が、書かれている。

 

『あの素晴らしき七年』エドガル・ケレット(新潮クレスト・ブックス)。

あの素晴らしき七年 (新潮クレスト・ブックス)

あの素晴らしき七年 (新潮クレスト・ブックス)

 

 

鍵は、ゲーミフィケーションか。

 

小さい子供をつれた家族で空爆を避けなければいけないとき、お金がないのにアパートを借りなきゃいけないとき、宗教に厳格な姉の子供たちの名前を当てないといけないとき。生きていれば困難な、しかし滑稽な事態に直面することもある。

 

ため息ついて、頭を抱えながらも、人生のネタとして、スパイスとして、楽しんでしまう、もしくはいつかは楽しめると信じることが、大きな物語に吸収されてしまわないコツなのだと、本を読んでいてつくづく思う。

 

人生のゲーミフィケーションは、大きな物語にあらがうヒューマニズムの戦術といえるか。『ライフ・イズ・ビューティフル』みたいに。

 

作家の7年間に身の回りに起こった出来事を36の章にまとめた、ひねりの効いたエッセイか私小説かといった本で、好きな章は読む人によって異なるだろう。

 

一番気になったのは、「鳥の目でみる」という章。アングリーバードという、人気のストレス発散ゲームーについての家族の会話が書かれている。

 

パチンコで鳥を発射して(オリーブを咥えた鳩がパチンコで発射されようとしている表紙は、この章からか?)、豚の住む建物を壊すゲームだけど、「鳥は死んじゃうんじゃない?」というおばあちゃんの疑問から想念が広がる。

 

「アングリーバードが我が家で、そしてほかの場所で人気があるのは、ぼくらがみな、殺したり破壊したりするのが大好きだからだ。」「実は宗教的原理主義テロリストと同じ精神を持ったゲームなのだ。」

 

テロの頻発するテルアビブに住み、ホロコーストを生き延びた父を持ち、世界中をまわってうんざりする現実を直視する作家は、ヒューマニズムを楽観視しない。人間を信じきったりしない。戦争や人殺しが状態の世界で生き続けている我々には、平和こそ真の耐え難い未来ではないか、という皮肉も放つ。

 

でも最終章「パストラミ」で、そんな皮肉への反論が。戦争のない世界になったら、戦争抜きでゲームをすればいい。そんなゲーミフィケーションもあるはず。

 

「「もしサイレンがもう鳴らなかったら」と前の席のママが付け足す。「サイレンなしでパストラミごっこしてもいいわね」」