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耽典籍:どこともつながっている辺境が増殖する世界の文学。『ターミナルから荒れ地へ』藤井光(中央公論社)

耽典籍

10月にノーベル文学賞が発表されるころになると気になるのは、「村上春樹は受賞するのか?」ではなく、「アメリカ文学は受賞するのか?」だったりする。

 

アメリカ文学の作家は、トニ・モリスン以来ノーベル文学賞を受賞していない。1993年以来ずっと。

(北米でいえば、2013年にカナダのアリス・マンローが受賞している。極めて味わい深い文学だけど、アメリカ文学とは言いにくい。)

 

ドン・デリーロとかリチャード・パワーズとか、優れたアメリカ文学はあっても受賞する気配もないのはどーしてかな、ノーベル委員会と仲が悪いとか、政治的なことはあるだろうけど・・・と思っていたけど、この本を読んでいろいろ納得した。

 

アメリカ文学は大きく変容している最中ということか。それは多くの文学がその言語に根差して持っているローカル性を失っているから。さらには他の多様なローカル性を持っている作家が言語(英語)を道筋にアメリカ文学に着地してきているから。

 

『「アメリカ」なき時代のアメリカ文学』という副題が実に端的にあらわしていると思う。

 

面白かったのは、アメリカ文学的作家は500ページを超える大作を書き、自分なりのアメリカ像を作り上げなければならないみたい、、そのお手本はメルヴィルの『白鯨』である、という指摘。(ちなみに、『白鯨』の影響力って、あんまり日本で文学を読む人には伝わらないよなぁ・・とか思っているんだけど、どうなんだろう。)

 

「ターミナル」と「荒れ地」という比喩は、グローバル化・スーパフラット化と、それによる辺境化・nowhere化を表しているようで、示唆に富む。どこともつながっている辺境?みたいな感じかな。

 

グローバル化が進むにつれて、この世界のあちこちに、ターミナルだけではなく荒れ地も増殖していないだろうか?

たとえば、夢も希望もないように感じられる仕事、現代に特有の紛争や内戦によって傷付き疲弊した社会、さらには効率化とスピード化の名目によって「無駄」だと切り捨てられていく作家という職業・・・。

効率を旗印に整備されていくグローバル世界からはかけ離れているようで、実は常に寄り添う「異物」のようにして、荒れ地はいたるところで日々生み出されている。」

 

荒れ地はどこか遠くにあるわけでなく、すぐ傍に、自分自身の中にも増殖している、ということか。

 

とすれば、それはアメリカ文学に限る問題ではない。「ターミナル+荒れ地」という場でいかに生きるかは、現代そして未来の誰もが直面しているテーマなのだろう。

 

「「ターミナル+荒れ地」という拡大中の場所があり、そこでの作家たちは「異物」としての小説を生み出すことで、彼らなりの闘いを日々続けている。」

 

ノーベル文学賞は、いまだ強いローカル性を感じさせる作家が受賞の中心となっていると思える。

 

「ターミナル+荒れ地」から書かれた文学と思える作家が受賞する頃には、世界はどう変わっているのだろうか。それは、あと何年以内のことなのだろうか。

 

最後に、本の終章近くで紹介されていたモハメドゥ・ウルド・スラヒというモーリタニア人の本の話しが印象的だった。

 

ターミナル化した社会の戦争=テロの関与者として、スラヒはnowhereであるグアンタナモに囚われ、そこで生き残るため、自分の存在を主張するために自信を尋問する側の言語の英語で手記を書く。

 

この凄まじいねじれこそが、現代だなと思う。こういう場所で、僕たちは生きているんだなと思う。

 

『ターミナルから荒れ地へ』藤井光(中央公論社)。