耽典籍:戦争より大きい人間を感じるには、ドキュメンタリーか詩か。『戦争は女の顔をしていない』スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(岩波現代文庫)
驚くほどに何の感想もなく、驚くほどに何も浮かばない。
2015年ノーベル文学賞受賞者、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチのデビュー作『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫)。
第二次世界大戦でソ連軍に従軍した女性たちのドキュメンタリー。必読は冒頭、著者による執筆日記「人間は戦争よりずっと大きい」。
「人間は戦争の大きさを越えている。人間のスケールが戦争を越えてしまうような、そういうエピソードこそ記憶に残る。」「その戦争の物語を書きたい。女たちのものがたりを。」
戦争や歴史や神話といった大きな物語でも覆いつくせない人間性に迫ろうとするヒューマニズム礼賛は、実にノーベル文学賞らしい。
一方で、大きな物語を「男の」といい、その裂け目から顕れる人間の物語を「女の」ということは、ちょっと古いかなと思う。人間の物語には男も女もない。そして人間のセクシュアリティは多様。
・・・くらいの感想は浮かぶものの、それ以上の心から湧くものが、何度読んでもなかった。
感想がないのが感想。
主著ともいえる『チェルノブイリの祈り』を読んだ時も似たような感覚を覚えたけど、『戦争は女の顔をしていない』では、さらに。
「思いで話は歴史ではない、文学ではないと言われる。」「いたるところに煉瓦は転がっているが、煉瓦はそれ自体では寺院ではない。」「わたしは人々の気持ちを素材に寺院を組み上げる・・・わたしたちの願望や幻滅を。わたしたちの夢を素材に。」
ドキュメンタリー文学とは、こういうものか。
ただ、無性にヴィスワヴァ・シンボルスカ(1996年ノーベル文学賞受賞)の詩集を読みたくなった。
シンボルスカは、戦争や歴史や神話といった大きな物語による高揚・陶酔に人がとらわれ、人らしさを喪失しても、日々の営みや自然の移ろいのなかで回復するヒューマニズム、人間臭さがあり続けることを詠う。
アレクシエーヴィチとシンボルスカ、ベラルーシとポーランドのノーベル文学賞受賞者が願い祈るものは同じだが、その文学的アプローチはシンボルスカのほうが好き。ドキュメンタリーより、詩のほうが。
アレクシエーヴィチを読んで、シンボルスカの詩を欲するのは、戦争よりずっと大きい人間を感じるために、ドキュメンタリーよりも詩を欲する自分自身の好みが故だと思う。
「現実が要求する」シボルスカ
この世には戦場のほかの場所はないのかもしれない
戦場にはまだ記憶されているのも
もう忘れ去られているのもあるけど
白樺の林、杉の林
雪と砂、虹色に輝く沼
そして、黒い敗北の谷間
いまでは人はそこで突然の必要に
迫られて藪の中にしゃがみこむ