今年の桜はどこで見ますか?誰と見ますか?来年の桜はどこで見ますか?誰と見ますか?

28歳まで、僕は会社に就職したことがなかった。

 

2008年、28歳の3月末、4月から会社員となることが不安で、悲しかった。

 

毎日同じ電車に乗って、毎日同じ場所に通い、一日中同じ椅子に座って、一日中同じ人と顔を合わせて、一週間を過ごすなんてことが、それが60歳まで続くなんて、信じられなかった。

 

3月31日、平日の昼間に東銀座に映画を見に行き(会社に入るとできない行為!)、縁石に座ってぼーーーっと桜を見ていた。

 

大学を中退し、ニートじみた生活からフリーターになり、自由人として生きてきた僕もついに年貢の納め時か、と思った。自由を失うのか、と思った。不安というより悲しくて、ただ悲しくて、涙が出てもいいんじゃないかな、と思った。

 

実際は、幸運なことに人生の師と会い、フリーターだったころよりもさらに好き勝手やれるエキサイティングな会社生活が待ち受けているのだが・・・あの日の桜は忘れない。

 

桜を見るたび思うのは、「今年の桜はここで見た。来年の桜はどこで見るのかな?」ということ。

 

2008年の桜は、東銀座で見た。

2009年の桜は、池袋で見た。サンシャイン勤務だったからね。

2010年の桜は、会社合併・事業移管の激動下でろくに見られなかった。

2011年の桜は、亀有で余震の中見た。

2012年の桜は、新所沢で見た。自分の事務所の敷地内にある、自分の城の桜で、しょぼい木だったけどとってもとっても綺麗だった。

2013年の桜は、目黒川で見た。自分の会社をつぶすことを決意し、経営企画に声掛けされている会社のそばだった。

2014年の桜は、半蔵門で見た。

2015年の桜は、赤坂見附で見た。

 

生々流転というけれど、毎年違う場所で桜を見てきた。

 

桜を見るとき、「来年の桜はどこで見るのかな?」と思うのは、諸行無常の自分の人生を思うから。今年の桜はここで、この人と見ているけど、僕はいつか去っていくのかもな、と思うから。

 

自分の存在をいつか去る者、と規定する癖は悲しいかもしれないけれど、その渡世人みたいな感覚はまだ抜けない。

 

2016年の桜は、赤坂見附で見る。2017年の桜は、どこで見る?

 

 

どこで見るか、も大切だけど、誰とみるかも大切。

 

桜を、誰かと見たという強い記憶がない。一人でか、会社の人と一緒にがほとんど。例外として、2012年の桜は自分の部下と二人で見た。

 

どこで見るか、に思いをはせてきた桜だけれど、そろそろ誰と見るかに思いをはせる桜にしたい、というのが、2016年の桜にかける願い。

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