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耽典籍:『身施』としてのプロボノと、タイの開発僧と、健康経営。『自由に生きる』プラユキ・ナラテボー(サンガ)

タイに進出している日本企業に健康経営の指導をしているMarimo5の大和亜基さんから、タイでは社員のメンタルヘルスのために僧侶を会社に招いて法話をしてもらう、と聞いて、驚いたとともに納得した。

 

仏教はライフスタイル哲学の側面もあるから、信仰が生活と近いタイでは僧侶が企業の健康経営にかかかわることもあるはずだ。企業内キャリアコンサルタントなんかよりも、ずっと機能するかもしれない。

 

でも、「開発僧」という方たちがいたことには驚いた。

 

「開発僧たちは村人が直面する現実的な問題にコミットし、その解決のためにさまざまな工夫を凝らしたプロジェクトを主導し、貧困の解消などに積極的に取り組んでいる。」

「また、彼らの活動は現実的な問題の解決にとどまらない。薄れつつあった村人同士の連帯感を蘇らせ、生態系に配慮して森林を保護し、村民一人ひとりの心の平安までも目指す。開発僧にとっての「慈悲」は、祈りの文句の中にはない。村人の苦しみに共感し、具体的実践でもって問題の解決を図ることこそが慈悲の修行の根幹であるとみなしている。」

 

僧侶として、仏教という実践哲学に根差しながら、開発コンサルというかソーシャルビジネスを行う人たち。

 

仏教における慈悲は、私と社会とが時間的空間的につながっているという前提に基づいて、そのつながりを意識し尊ぶ、ということではないかと思う。それは、エシカルとも近似の考えではないか。

 

そうであれば、僧たちがサステナブルでない開発を避けるため、自ら仏教的実践として社会的な課題解決に取り組んでいく「開発僧」という存在は、ごく自然にも思える。

 

別に僧侶が主導してなくたって、慈悲というかエシカルというか、そういう視点に根差した開発(というか現代化、産業化)って進められると思うし、必要性が高まっているはず。というか、EDAYAでずっと言っている「私と社会のリ・デザイン」って、そういうことだと思うんだよね。

そんな、「開発僧」の方たちの業績や考えを知ることができて、とても面白かった。

 

また「布施」についても、興味深く読んだ。

 

「『布施』というのは、お寺への寄進という意味だけではない。また金品を施す『財施』ということだけでもない。自らの力を貸すという『身施』もあれば、自身の持っている知識や智慧をシェアーするという意味の『法施』もある。」

 

これってプロボノですよね。

 

僕のプロボノのスタイルとしては、いろいろ知恵も貸すけど一緒に汗かくパターンが多いので、『身施』7割・『法施』3割みたいな感じか。金はないけど身体(と頭)で払うお布施。

 

「労働はお金を稼ぐという意味合いを持つだけではなく、全体の利益のために自身の有するエネルギーや知識を布施するという意味合いがある。」

 

本書の著者は、日本人で開発学などを学んでいらしたが、「開発僧」の存在にふれたこと等から出家した、上座部仏教僧の方。

 

「開発僧」の話しが多く出てくる、社会に目を向けた前半、言葉や意識について考える、観念的な中盤、戒律や瞑想の話しが多くマインドフルネスなど好きな方には面白い、臨床心理的な後半と、それぞれの味がある。読み甲斐のある一冊でした。

 

『自由に生きる』プラユキ・ナラテボー(サンガ)。

自由に生きる

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