耽典籍:ボノボやAIを少数民族と呼ばないのはなんでだろう。『世界を動かす少数民族』高やすはる(幻冬舎)
僕のかかわるEDAYAは、フィリピン北ルソン島の山岳少数民族カリンガのみんなと取り組むプロジェクト。先日も、カリンガから3人の若いメンバーが来て、日本のみんなと交流していった。
少数民族の暮らしや文化とか、現代にどう適応していくのかとかの話は大事なテーマになるので、興味が湧き購入。
世界のあちこちの少数民族の情報が書かれていて、パラパラめくりながら読むと面白い。(まあ、頭からずっと読む本ではない・・。)
フィリピンからは、カリンガのすぐ近く、イフガオ族が挙げられている。
こういう本を読むと、世界にはいろいろな人がいるな、、とつくづく思う。人種の話にもなるけど、姿かたちもだいぶ違う人もいる。でも、会えばお互いに人間だと認められるのは面白いな、と思う。
初めて黒人さんを見た時の日本人は何を思ったか、を想像することがある。同じ人間だと思ったのだろうか。弥助という黒人さんが織田信長の家来になっているので、ずいぶん変わっているなぁと思いながらも人間同士として認めていたのだろう。
見てくれは違っていても、人間として尊重しあえるヒューマニズムは素敵だと思う。
これは犬同士とかにもいえて、柴犬とチワワとか、見てくれは全然違うのにどうやらお互い犬だとわかってる・・・っぽい。何が通じ合って同種の生き物を認め合うんでしょうか?僕が知らないだけで、生物学的にあるんでしょうね。
同時に、じゃあ何でボノボを見ても異なる人種とか民族だと思わないのかな。やっぱりボノボは少数民族です、と言われると違和感がある。その差は何なのかな。
さらに、近い将来AIと暮らす日が来たとき、AIは少数民族と呼ぶのかな。AI人種の中にテスラ族とか、ソフトバンク族とか、できちゃうのかな。。
でもさ、pepperを少数民族と呼ぶのも違和感があるでしょう。
・・・・そんなしょーもないことを考えながら、いろんな国の少数民族・文化についてぼんやり知るにはいい本でした。