LGBT成人式で思い浮かんだ徒然。誰もがそれぞれに生きにくい、その生きにくさを大事にする、大事にしあう社会。
LGBT成人式、今年も行ってきました。当事者の方の式辞はもちろんだけど、家族・周りの人の式辞がまたも感慨深かった。
・・というちゃんとした感想は後日として、走り書きで徒然に思い浮かんだこと。
生きやすい社会を目指すことは大前提だけど、ほんとは生きやすいことなんてない。誰もなにかしら生きにくい。私達みんな生きやすい!なんて新興宗教とか反知性ポジティブハッピー思考の領分だろう。
生きにくい。私達はみんな誰もが生きにくい。
政治の役割がいまや利益の再配分ではなく、不利益の分担にあるはず、なように、我々には生きやすさの再配分ではなく、生きにくさの分担、分かち合い、分かりあい、支えあいが求められてるのではないか。
みんなそれぞれの生きにくさを、発露して、分かりあって、支えあう社会。
生きにくいということは、不幸であることと同義ではない。
生きにくくても幸福、ということがあるはず。生きやすくて不幸もあるだろうし。 それぞれが、自身の生きにくさを自覚してシェアして、生きにくいからこそ幸福、ということにならないだろうか。
しくみで解決できる、最大公約数な生きにくさは、制度などで対応したり、最大公約数じゃなくても価値に転換できる生きにくさからはビジネスが生まれる。とか。
みんな、それぞれ個別の生きにくさの当事者なんだろな、と思いながら。
誰もが自分自身の生きにくさを大事にできる社会っていうのを作りたいな、と思った。
・・・あと、去年も思ったけどLGBT成人式は引き出物(?)が豪華でお得感ある。。