耽典籍:「女性活躍推進」は「女性の貧困」をどう語るか。『下層化する女性たち 労働と家庭からの排除と貧困』小杉礼子・宮本みち子等(勁草書房)

 ノーベル文学賞が発表される頃になると、自選「今年読んだ本ランキング」の整理が始まる。結構な冊数を読んでいるし、友人の本もあるので順位付けは迷うが、1位は意外とスコンと決まる。今年はこの本が1位。

 

「女性活躍推進」は、「女性の貧困化」にアプローチし得るのか。多くの人が忘れている盲点への提起が、集められている。

 

『下層化する女性たち 労働と家庭からの排除と貧困』小杉礼子宮本みち子等(勁草書房)。

人事関係者として、耳が痛い。

流行りの「女性活躍推進」は、高学歴キャリア女性を押し上げる「追い風」となっているが、女性の働き方が「家族依存労働」前提という構造変化がないままでは非正規雇用女性との「女女格差」を広げるばかりだという、頷ける抗議がなされている。

 

女性が労働者として社会進出をした時期が、欧米ではフルタイム雇用が常態だった60年代後半だったため、女性の労働による自立が成り立った。一方、日本では90年代の雇用が不安定化した時期に重なったため、女性の労働者としての社会進出が貧困化、格差拡大につながったという分析には膝を打った。

「女性が自立をめざそうとした時期に、自立できる仕事が減っていった」。

 

日本では「女性の貧困化」が進むが、女性が労働者として自立しえなかったために「貧困の女性化」(貧困家庭のなかで女性が世帯主の世帯が半数以上となること)は見られない、とのこと。

 

雇用の不安定化、すなわち労働への包摂が困難化した時期は、同時に家庭の不安定化、すなわち家族・結婚の包摂が困難化した時期でもあるので、社会進出とともに一気にセーフティーネットを失い、下降する女性の姿が浮かぶ。

 

さらに、これは片面では「男性不況」進行の話になる。

職を奪われた男性は居場所や将来の展望も失い、「結婚に値する相手」にもなれず、社会から締め出されつつもメディアで華やかな消費社会を見せつけられ続ける。反動として、「男らしさ(マチズモ)」文化に身を置くようになり、力の誇示や仲間内での敬意を価値の中核とする下位文化を築く。女性や人種の差別やインテリ嫌い、反知性主義など。という研究分析は、アメリカのものであるものの、身近でも思い当たる事件や事象がある。

 

そんな「男らしさ(マチズモ)」文化が通底となって、女性の貧困は「暴力」と切り離せない。特に、性暴力。

就労支援にかかわる人なら思い当たるだろう。女性の貧困に性暴力の話はつきまとう。僕もかつて就労相談をしていて毎週性暴力の話を聞かされ、痛恨絶句の毎日だった。それは家族による性虐待なことも多く、父親からの率が高いのだが、何故かいまだに支援的役割を担う人にその認識が薄く、家出少女を無理に家族の元に返して済ませてしまう悲劇を聞かされる。

これはさらに、性搾取へと続く。

 

性風俗産業には友人もいるし、尊敬する人もいる。性風俗産業は性搾取だと断じる、錆びたPTA的な単純理解には異を唱えたい。

故にこそ、「家族から労働力や家計補助の役割を期待され、自尊感情が育たないまま困窮状態に置かれた女子生徒たちは、そのままの状態を受け入れ「役に立っている」ことに自分の存在意義を見出しがちである」という光景が、性風俗産業に見られやすいことが変わっていってほしい。性が商品化されれば、それは「役に立っている」ことになるが、徐々に隘路へ追い込まれてしまう。

 

JK産業で見せてもらったが、そのような仕事につき、人間関係の中で生きるうちに、他の選択肢を知らず、捨て、諦めていくことで、生き方を選びようがない状況になるのであれば、それは緩やかな人身売買とも言える。

このような視点は、本書でも何度も引用される『女子高生の裏社会』の仁藤夢乃さんにご教示いただいた。

女子高生の裏社会?「関係性の貧困」に生きる少女たち? (光文社新書)

女子高生の裏社会?「関係性の貧困」に生きる少女たち? (光文社新書)

 

「女性活躍推進」によって、女性に様々な選択肢を増やしていくなら、このような隘路に陥る女性への選択肢も用意しなければ不誠実だと思う。

仁藤さんの一般社団法人Colaboも取り組んでいるような「居場所づくり」によって、女性に寄り添って抑え込まれた言葉を引き出し、人生を歩みなおすサポートをする実例が本書でも紹介されている。そういった「安心できる、安全な場をつくる。」「認められ、心配され、応援されるような人とのつながりをつくる。」ことは、地に足のついた意味での「一億総活躍(失笑)」なのだと思う。

 

巻き戻って、「女性活躍推進」を一部のキャリア志向の女性をさらに経済戦力化するためのマルチキャリアパス構築に留めてはならない。それによる「女女格差」の拡大は働く人の潜在的不安をあおる。「引きこもり」「過労死」の8割が男性なことに比して、「メンタルヘルス系問題」の8割が女性と紹介されているが、キャリアパスだけ整えてさあ活躍してください、と言うのでは、結局男性も女性も(LGBTも)働きにくいという根底は変わらぬままで我慢ゲームへの参加者を増やすだけだと思う。

 

さてじゃあどうするか、ということは難問だけど、とりあえず企業で「女性活躍推進」と言っている人は、Colaboさんに学んで夜の街歩きスタディーツアーに参加させていただいていろいろ考えたらいいんじゃないかな、、と思う。

人が緩やかに選択肢を奪われることとは、そういった人を包摂していく産業の仕組みとは、とか、幸せとは、とか、とても考えさせられる。衝撃的な体験も、あるかもしれない(僕はあった。)。

あとは、前掲のような場づくり。

 

さらに、「男子の性教育」というのはとても大事なのではないか、と改めて思った。経済・労働の話は所詮は人の話なので、セクシュアリティの問題と密接だと思う。「家制度」という亡霊とも、密だと思う。

 

「男子の性教育」による人間的な(記号的でない)セクシュアリティ観の醸成により、「男らしさ(マチズモ)」文化が崩れていけば、もっと楽になる人はいると思う。マッチョ嫌いの僕自身も楽になる。

そういう点で、最近の強姦罪の改訂で男性も強姦の対象としようという動きがあるのは、喜ばしいかもしれない。いや、喜ばしいというのも語弊はあるけど。セクシュアリティという根底的なものを揺さぶることで、その上に建っているいろいろな制度を揺さぶる、という方針は期待できるのではと思っていて、そのことからLGBTやポリアモリーの仲間諸氏を応援している。

 

最後に、僕の話。

僕はもともとは元当事者としてニート・引きこもりの支援から活動をスタートさせていて、貧困と就労という課題とも歩んできた。経験を積んで、最近は偉そうに「新しい働き方」とか「ワークスタイル変革」とかを人様や企業に話たりする。大きな企業の人事の方と「女性活躍推進」の話をすることもある。

でも、もとは社会の包摂からこぼれそうな人と歩むことが原点なんだよ、ということを思い出した。オシャレに「新しい働き方」とか言ってるんじゃないぞ、ということ。

反省したのでした。