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耽典籍:生態系のため鹿を撃つ、文化のため少数民族に腰ミノを強いる。『けもの道の歩き方 猟師が見つける日本の自然』千松信也(リトルモア)

長野県は佐久平でうかがった鹿の害の話しが示唆深く、ずっと考えている。

 

鹿害は、鹿が増えて若芽を食べてしまい樹木が根付かず土砂崩れのもとになったり、畑に侵入して作物を食べつくしたり、というものらしい。オオカミがいなくなった、住家や道路が近くなり食物が得やすくなった、融雪のために撒く塩化カルシウムを舐めて越冬してしまうetc・・・などの要因が複合しているよう。鹿だけでなく、イノシシ、サルなども増えて同じような害を引き起こしている。

生態系の破壊と、農作物の被害。

 

新宿で暮らす僕は、山林や農村での獣害のことを知らない。実態を少しでも知れる本を、、と思った矢先の新刊。

 

『けもの道の歩き方 猟師が見つける日本の自然』千松信也(リトルモア)。

けもの道の歩き方 猟師が見つめる日本の自然

けもの道の歩き方 猟師が見つめる日本の自然

 

京都で、銃ではなく罠で猟をし、獲物を食べている猟師さんが、獣(動物)たちのこと、山林の変化のこと、狩猟についてなどを書き綴った本。獣たちへの視線が、芯のある敬意に満ちている。

 

狩猟と獣害の現場から一貫して伝えているのは、変わっていくことが自然、ということか。

ナラ枯れは必然的なもので、この変化を受け入れたうえで、利用していくというのが、今あるべき人間と森とのかかわり方なのではないだろうか。」

 

生々流転。長期的な時間軸でみれば、何事も移ろい変わるのが自然で、ある一点をピン止めしようとする姿勢は不自然といえる。佐久平でも山林保護の実践をされている方から近い考えをお聞きした。

江戸期の巻狩りで乱獲され、鹿やイノシシが局地的に絶滅していた地域もあるという。そんな地域で、「最近は自然のバランスが崩れて鹿が増えた」というのは、いろいろ矛盾のあることなのだろう。

 

たかだか数十年の近視眼から、「生態系」とか「ありのままの自然」などというのは、おこがましいのかもしれない。我々は常に、変化の一時期を生きているに過ぎない。

 

 

同様の構図は、文化や伝統の継承にもあてはまる。

少数民族や僻地の村落でも、人はiPadを使ってるし、ZARAとかユニクロを着ている。でも、誇り高い文化を継承するために、昔ながらに腰ミノをつけて竪穴住居に住め、的な主張もあるらしい。

社会の変化に応じて変容するのが文化であろうに、人の営みをホルマリン漬けしたがる傾向は、意外と強い。

 

文化や伝統を伝えるとは、腰ミノ着用を強いることではなく、変化を認めたうえで、その変化に応じた腰ミノのあり方を枠にとらわれず考えていくことだと思う。それがリ・デザインだと思う。

 

「文化が薄れ廃れていくことは必然的なもので、この変化を受け入れたうえで、人々が受け継いできたセルフエスティームの素になるような部分をリ・デザインしていくというのが、今あるべき私と社会とのかかわり方なのではないだろうか。」といったところか。

 

 

翻って、鹿害の話。

 長い目で見れば、鹿が増えるのも自然の営み・・・だからといって、作物が食べられてしまうのはやっぱり看過はできない。『雨は降るがままにせよ』(ポール ボウルズ)というわけにはいかないのだ、傘をささないと。

 

数年前に、八ヶ岳の麦草ヒュッテ(中1の時に遭難した、思い出の小屋)を訪れたとき、一面が禿げ野原でトリカブトしか咲いていなくてビックリしたのだが、鹿に食べられたと聞いた。放っておけない。

 

聞くと、山で撃った鹿を都会のジビエ料理屋とかに流通させることは、けっこう難しいらしい。狩猟が、経済を生まないとおっしゃっていた。

 

しかし、こういう社会課題だけどその解決策が経済を生まないものを、経済に結びつけることがソーシャルビジネスなのかなと思うのだ。その結び付けのアイディアこそをイノベーションというのだろう。

そう考えると、獣害はビジネスチャンスなのかな、とも思う。イノベーションが思いつけば、という難題付きだけど。

 

同様の構図は、文化や伝統の継承にもあてはまる。

で、そういうイノベーションを探っているのがEDAYAなのかもしれない、とか自画自賛しつつ、鹿に思いを馳せている。