耽典籍:無縁・公界・Identityからエチカのスピノザまで、侮れない本。『ありのままの私』安冨歩(ぴあ)

『ありのままの私』安冨歩(ぴあ)。

ありのままの私

ありのままの私

 

 いくつかのインタビュー記事を読んで、ちゃんと著書も読みたくなった。「男装をやめた東大教授」安冨歩さんの本。

 

ダイエットをしたとか、どんな女性服を買ったとか、髪の色を染めたとか、写真をSNSに投稿したとか、近所まで出かけたとか、教授会に出たとか、TVに出たとか・・・、そんな「男装をやめ」る過程が書かれた本。と、読みやすい体裁をとりながら、なんか物凄い本質的なことが書かれてるぞコレ・・。

 

僕は「『エシカル男子の会』をつくる会」を立ち上げたときに、LGBT団体ReBitの藥師さんから、「生きやすい、ってことですよ」と言われて目から鱗だったのだけど、同様のことが巻頭にある。

人は、「自分自身でないもののフリ」をして我慢している、という指摘は、至言だと思う。

 

男性の生きずらさは、男性服のバリエーションの少なさを実例に、「男はお仕着せという牢獄に閉じ込められている」と示唆されている。

 

凄みがあるのは、無縁・公界という社会論に踏み込んだ4章と、Identityと一神教に触れた5章。

5章なんてかなりの蓄積が必要なことをサラッと書いていて、理解しきれないというかよ~く考えこんでしまう。。

 

4章の無縁・公界という話はピンとくる。僕もあちこちで身勝手なことを続けているけど、規律の埒外というか、「そういう奴」だからというか、稲葉だからしょうがない、という扱いをされて(してもらって)きた。

無縁・公界の者としての扱いで、理解してもらえないマイノリティとしての寂しさはあるけど、だから出来ることも多い。

 

ちなみに、EDAYAが掲げるマイノリティのエンパワーメントという題目のマイノリティは、少数民族とかのわかりやすいマイノリティではなく、こういう無縁・公界の者というマイノリティも含む。

 

本当は、「お仕着せという牢獄」なんて枠は壊して、みんな無縁・公界の者と化してしまえばいいと思っているが、これはある種のアナーキズムニーチェ的なものにつながるアブない考えなのかもしれない。

 

本の最後で、いきなりスピノザが出てきて驚く。

スピノザといえばエチカ。エシカルなどを考える上で、真面目に考えないといけないながら難解すぎる人なのだが、そのスピノザを高名な哲学者の割に顔が優しい「有徳の無神論者」として紹介している。

この1ページの「おわりに」についてだけでも、いろいろなことが考えられて、本当に侮れない本だと思う。この人、すごいな。。