徒然妄念:オウム真理教の頃の思い出

若い友人たちは、日本でも首都でテロがあったことを知らない。

前世紀末には、震災があって、テロがあって、そしてエヴァンゲリオンの放送が始まった年があったのだ。1995年。

 

中学三年生の終業式といえば、それは卒業式であることが多いだろうが、中高一貫の学校に通っていた者にとってはただの終業式でしかなかった。

 

僕はたしか武田泰淳の『富士』を噛り付くように読んでいた。実に終末的な本だ。

 

終業式の始まりを待っていたところ、校内放送が流れて曰く「生徒の諸君は、本日は地下鉄で帰ってはいけません。」。

それだけだった。

 

クラス内は一瞬、まさに狐につままれ、その後爆笑が沸き起こった。それはそうだろう、「今日は地下鉄で帰るな」とは何だその馬鹿げた放送は。

 

しかし頭の回る者はいるもので、かつそういう人間は相応のインフラも備えていたりする。デキる奴としか言いようがない。

 

我が部活の仲間であったK君がまさにそれで、これは何かの事件があったのだろうとあたりをつけ、株式市況や競馬中継を聞くために(注:中三です)持っていた短波ラジオで情報を収集した。

 

当然ながら、携帯電話など無い時代である。インターネットなども、手の届くものではなかった。短波ラジオとは、正確かつ迅速な情報収集手段だったといえる。

 

そこで、地下鉄で不信な事件があり、死者も出たという事がわかった。

「何か地下鉄で事件があったらしいぞ」と言った彼の姿を、部活の仲間として誇らしく感じたことは忘れない。

 

ラジオを持ってきている者は他にもいて、生徒たちだけでも事件の概要はだいぶつかんでいたと思う。中学生は登校時間が早かったため、サリンの被害にあうものはいなかったが、まさに狙われた路線、駅をとおって通学してきている者も何名もいた。

 

結局その日はどのように帰宅したのか、覚えていない。僕は山手線での帰宅だったが、別に山手線だから安全ということは無かったので、警戒して帰ったと思う。

 

ただ、新宿と大久保の間の雑然としたエリア(今ではコリアンタウンと呼ばれる、当時の無法地帯)は通って帰った。新宿住まいだったのだ。当時は麻薬を売っていたりコロンビア人やロシア人の街娼がいたりが当たり前のエリアだったので、テロリストが隠れるにもうってつけなエリアなのだが、特に何の印象もなかった。

 

新宿という人混みを生活圏にしている身にとっては、都市を狙った無差別テロはやっかいで、おちおち紀伊國屋にも行けない感じであったが、でも先にいったような無法地帯ではテロ前から銃撃戦やら青竜刀ブン回しやら死体遺棄やら焼殺人やらがあったので、警戒値を上げて生きていけばいいだけともいえた。

 

やがて犯行はオウムによるものと噂されはじめ、事件がワイドショーじみてきた頃に香港(当時まだイギリス領!)に春休みの海外旅行に行ったのだが、その当日に警察庁長官が狙撃された。

 

事件の捜査が本格化したのは高一になってからで、ショーとしての宗教テロ事件というものに辟易しつつも、文学的な感興はひかれた。

前年にノーベル文学賞を受賞している大江健三郎には、オウム的な要素もふんだんに出て来て、『洪水はわが魂に及び』などを読むと実に示唆深かった。ギュンター・グラスなども、何かを連想させた。

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中村元などの仏典関連の本を読むこともあったが、宗教というものを胡散臭く見る傾向が強くなってしまったのは少し困った。宗教を学問として正面から見ず、敬遠してしまう風潮が、かえって安易表層的なスピリチュアル系の敷衍を導いてしまったと思う。

 

オウムを巡るある種の社会不安は世紀末的なものとなってその後も続き、高校生にとってはより身近でショックな神戸連続児童殺傷事件(いわゆる酒鬼薔薇事件)へと連なっていった。ちなみに、エヴァンゲリオンはその間映画化なども挟みつつ、時代に伴走する。

 

あの頃は、ノストラダムスの大予言などもまだ一抹は、信じられてもいたのだ。

 

20世紀の終焉まで、あと数年と言った頃の話しである。