夢抱く粗忽娘、下里夢美/ソーシャルドリームコンテスト応援

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2013年の初夏、渋谷西武の2階アクセサリー売り場で珍獣と会った。

 

下里夢美というその珍獣と僕は、EDAYAとR ethicalさんのアクセサリー販売の売り子として一緒のシフトに入っていた。僕も彼女も販売に不慣れで、通りかかるお客さんにおっかなびっくりしながら数時間をすごした。お互いのことをぼそぼそと話し、なんだかNGOの手伝いをしつつファンドレイザーの勉強をしつつ、カンボジアだかアフリカのことをやりたい子らしいと、ぼんやりわかった。シフトの終わりに初めてアクセサリーを買ってくれるお客さんがいて、二人して慌てつつ、片方が帳場に走り、片方がお包みをして無事に販売を終えた。はじめての二人の共同作業ってやつだった。

 

実はその前に彼女とは顔をあわせている。シャプラニールのインターンだった彼女がEDAYAのイベントに来ていて、僕もそこに参加していたのだ。僕がEDAYAのプロボノになる決定的なイベントに、下里さんもいた。

 

とにかく、一緒に販売をやった後も彼女はEDAYAのイベントを手伝ってくれたりして、ちょくちょくと顔をあわせる中で親しくなっていった。シエラレオネのことも少し聞いた。彼女にとっての、準備運動期間だったと思う。

 

しばらくして、アラジという団体を作ったと聞いた。ああ、下里さんは助走期間に入ったんだなと思った。とりあえずいくつかイベントをやっているので顔を出してあげないと、、と思いつつなかなか行けず、半年近くすぎた。

 

下里さんはよく迷走をする人だと思うが、アラジ立上げの時も右往左往あったらしい。イベントにネッ〇ワークビ〇ネスの人ばかり来ちゃったり。やや安定してアフリカ料理の調理&食事会を定期開催するようになった頃、やっと僕はアラジの下里夢美に会いに行くことができた。

 

団体運営者としての下里夢美のいいところ、悪いところを感じたアフリカ料理会だった。珍獣のような面白味はあるが、粗忽者だなという印象が残った。その長所短所はいまだにあまり変わらない。イベントは楽しく、以降アフリカ料理屋によく行くようになった。

 

シエラレオネという目的地は持ちつつも、方法論が定まっていない、要はWhyはあってWhatが弱いアラジは、その後も迷走を続けたように見えた。食事会や、プレゼン会や女性への投資や、インタビューやファンドレイジング勉強会や・・なんだかいろいろやっていた。

 

下里さんの性格なのだろう。たくさん思いつき、かつそれをやってみたくなってしまう。アイディア豊富で行動力があるといえるが、やり散らかすともいえる。継続性が課題点。

 

アイディアと行動力ゆえに思わぬビッグヒットがあり、それが面白くて、同時にやり散らかしも心配で、僕は彼女の企画に顔を出し続けた。僕自身もやり散らかすタイプなので、シンパシーを感じたともいえる。

 

驚くこともあった。アフリカローズの萩生田愛さんや、NPO法人OVAの伊藤次郎さんがイベントに来てくれているのに、小汚いところにぽつねんと座らせて水を出す程度、みたいな。人の扱いに差をつけないというと聞こえはいいが、もうちょっとゲストを大切にしないと失礼すぎるだろ・・・と焦った。

 

それで下里さんに小言をいうのだが、まあ正直それも面白くて、粗忽な珍獣の暴れぶりを見るために、老婆心を発揮させつつ彼女の企画に首を突っ込んでいる。

 

彼女の方からも、僕は使いやすい人間なのだと思う。気づかいはいらないし、一定のクオリティは担保してあげられるし、集客もするし。だからネタに困ったときに声をかけてくる・・気がする。

 

そのいい例が、第1回ソーシャルドリームコンテスト。突然思いついた大規模プレゼンイベントの登壇者としては、僕はうってつけだったのだろう。1か月前くらいの急な打診だったものの、プレゼンターとして無事役割は果たしたはず。

 

ソーシャルドリームコンテストはそんなバタバタで始まったのにも関わらず、無事に継続コースに入り、この9月2日に第3回が開催される。まだまだ至らない点は散見するけど、でも仕組み化や質の向上の努力はよくわかるので、下里さんも成長したな、と思う。

 

それはつまり、アラジの迷走助走期間の終わりが近い、ということなのかもしれない。

 

正式にNPOになり、シエラレオネとのパイプもでき、関わる人も増え、そろそろプロトタイピングから事業化へ、という時期なのかもしれない。下里夢美の夢が形になる兆し、といえようか。

 

だからこそ、アフリカ料理会の頃から引きずる彼女の粗忽ポイントをちゃんと認識して、カバーできる体制があるといいなと思う。僕が思う彼女の短所は、下記。

 

(1)実行フェーズが雑

アイディアから準備をし、人を巻き込んで動かすことまではエネルギーも意識も割くのに、いざ本番となるとすごく雑になる。準備会を何度もやって、出欠確認もまめにとっていたのに、イベントが開始されると力尽きてほったらかしで、参加者が途方にくれる姿を何度か見た。集められたけど、どうすりゃいいの?みたいな。

 

第1回ソーシャルビジネスコンテストの時、下里さんの靴が壮絶に汚くてカビてんじゃないかってくらいで、主催者として前に出せない・・と思ったが、それも一例かもしれない。

 

スタートがゴールで満足してしまうのか、準備通りに本番をすすめるだけで頭がいっぱいなのかわからないが、一期一会で集まった人の心を鷲掴むためにも、今ここの場に集中して、神経を配ってほしい。

 

(2)身内に向きすぎ

活動を続けていると、親しい人が増えてくる。そんな身内を重視して、馴れ合い感がでてしまうと、外部の人やリソースを取り込むことが難しくなる。下里さんには、ちょっとその危険性がある。

 

ゲスト対応が雑なのは典型例かと思う。知らない人とコミュニケーションをとるのが意外と苦手なタイプなのかもしれない。けっこうシャイというか、恥ずかしがり屋な一面を持つとは思う。

 

NPOの代表になったのだから、ここら辺は変えていった方がいいだろうけど、無理する必要もない。団体内で誰かサブの人間が、外交面は担ってもいいかもしれない。

 

(3)感情ですぐに器がいっぱいになる

ここは、最近だいぶ成長してるなと思う。感受性豊かな分、納得いかないことがあると感情に流されてしまいがち、という印象が以前は強かった。

 

でもシエラレオネに行って一筋縄ではいかない人間の中で暮らしたり、NPOという組織を持ったりして、感情を入れる器はだいぶ大きくなったみたい。端的にいって、しっかりと人の話しを聞けるようになった。

 

このまま器をより大きくしていってもらいたい。言うまでもなく、世の中には人の数以上の理屈や価値観があり、考えがあるのだから、それをちゃんと聞いて、受け止められる人になっていってほしい。そういう人、意外ととっても少ない。 

 

・・・というように僕なりの苦言を記してみたけれど(本当はあといくつかある)、これはもうすぐ誕生日を迎える、そして第3回ソーシャルドリームコンテストを開催する下里さんへの、僕からのひねくれたプレゼントのつもりだったりする。

 

彼女の良いところは、いくつもある。ただ一つ、賞賛すべきことは、やり続けていることだと思う。これは本当に偉い。

 

迷走しているだの継続性がないだのと小言を言ったが、でも蛇行しながら前へ前へとアラジをすすめてきていることは間違いない。やり散らかし続けることは、やり続けることと変わりない。

 

社会に関わる活動で、なにより大切なのはこのやり続けることだと思う。瞬間風速で素晴らしいことを成す人、突発で大きなインパクトを出す人はいる。でも社会課題と向き合うという答えもゴールもない活動のなかでは、右往左往しながら、手を変え品を変えしつつも続ける人こそが賞賛されるべきだし、きっと人に寄り添って長期的に影響を与えられる。

 

下里さんと知り合ってからの年月は、このことを強く思わせる。

 

9月2日に迫った第3回ソーシャルドリームコンテストを経て、NPO代表の下里夢美がどのような事業の継続をみせていくのか、夢抱く粗忽娘の夢の実現がとても楽しみ。

開催日まで4日!!第3回ソーシャルドリームコンテスト≪夢×社会貢献≫

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耽典籍:エシカルと仏教と自らを慈しむこと。『愛する』ティク・ナット・ハン(河出書房新社)

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仏教哲学とエシカルはかなり近しく、中でもティク・ナット・ハンが説くインタービーイング(相即/相互共存)は本質と思えて幾冊か読んでいる。

 

初夏にでた新刊『愛する』は、題のとおり愛について平易な文章を集めた本で読みやすい。が、男女の愛はごく一部で広い思いやりや、何より自分自身を省み慈しむことが説かれていて、学びは深い。

 

特に「無我」という章は核心と思う。

 

「「私」という孤立した存在はないのです。」「一人では存在できません。すべてのものと関わりを持ちながらここにあるのです。「私」とは、地球・太陽・両親・先祖といった、私でない要素のみによって成り立っています。」「あなたと愛する人の間にある、この関係性を理解するとき、愛する人の苦しみはあなたの苦しみであり、あなたの喜びは愛する人の喜びであることがわかるでしょう。このような見方ができるようになると、自然とあなたの言動は変わり、自分と相手の中の苦しみを和らげることができるようにもなります。」

 

私と社会とが空間的時間的につながり続けること、故にその影響に思いを致すこと。相互共存。その認識をエシカルの本質とするのなら、わかりやすく受け入れやすく説かれた短文としてこれほどのものもない。

 

マインドフルネスに興味があり、ティク・ナット・ハンの本を手に取る人も多いだろう。思うに、説かれているのは自分自身を、さらにいえば自らの負の感情を認め慈しむことである。

 

このことは『和解』(サンガ)に詳しいが、自分以外の何かと和解する話しかと思いきや、自身が押し込めてきたネガティブな感情(インナーチャイルド)と和解することが説かれていて驚いた。

 

『愛する』では「友情」という章が近い。

 

「あなた自身の良い友達であってください。あなたが自分自身の良い友達でいられれば、あなたの愛する人の良い友達にもなれるのです。

 

慈しむ、という言葉についてはもっと考えなければいけないと思っている。『愛する』では慈愛という言葉が使われているが、慈悲と慈愛はどう違うのだろうか。慈愛はキリスト教が用い、慈悲は仏教が用いるイメージがあるが、それは浅薄すぎるのだろう。

 

ベトナムの高僧だがフランスに亡命し暮らすティク・ナット・ハンはキリスト教にもあかるく、二つの宗教を行き来しながら人や社会の哲理を説く書物もある。注意深く読んでいれば、慈愛と慈悲についても書かれているかと思う。

 

そんな一冊『生けるブッダ、生けるキリスト』(春秋社)の新版も同じく初夏にでたので読み進めているが、こちらは平易な言葉で書かれているとはいえ引かれる教養の幅がとても広く、考えをよくよく巡らせながらしか読むことができないので、なかなか読了しない。が、すさまじく面白い。

 

いずれにせよ、エシカルについて考えるうちにこれ仏教じゃない?ということが度重なるので、最近はお坊様の話しを聞きにいったりしているが、あいつスピリチュアルづいちゃったんじゃないの?とか思わないでね。

 

『愛する』ティク・ナット・ハン(河出書房新社)。

 

愛する:ティク・ナット・ハンの本物の愛を育むレッスン

愛する:ティク・ナット・ハンの本物の愛を育むレッスン

 

 

 

 

耽典籍:U理論と、さまざまな個性と同じ時間を過ごすこと。『虹色のチョーク』小松成美さん(幻冬舎)

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読みにくい、と意外にも思った。小松成美さんの本なのに。読む者を引き込み、一気呵成に取材対象のストーリーを追体験させる卓越した伝え手の本なのに、読みはじめてもスピード感をおぼえられず、戸惑った。

 

手探りをしながら書き進めているみたい。

 

そもそもなぜ日本理化学工業なのか。いや、素晴らしい会社なのは知っている。というより世間に流布されすぎている。メディアでもさんざん取り上げられた有名な会社を、今さら小松さんが書くことの必然性があるのか、疑問だった。

 

小松成美さんだから伝えられるものは何なのか。

 

そんなことを考えながら読み終えて、結局は得心に至り、卓越した伝え手の伝える技量に感服してしまった、そんな本。

 

この本は、U理論だと思う。


U理論は、現実を観察し感じる(Sensing)、既成概念を手放す(Letting Go)、内省から知が現れる(Presensing)、知が結晶化する(Crystallizing)、行動し実体化する(Prototyping)という5段階をもつ(と理解している)。

 

『虹色のチョーク』は5章に分かれており、まさにこのU理論の5段階に沿っている。

 

第1章は、日本理化学工業の今の姿(Sensing)。知的障がいの方たちが働く様子と、会社の仕組み、経営者の意思。通常の本であればここで、素晴らしい会社だねといって終わりだろう。

 

第2章は、働いている障がい者の方の家族の話し。働く人と、取り巻く家族の個別の想いが描かれる。障がい者という記号が剝がされて(Letting Go)、それぞれの人の生き様が立ち顕れてくる。

 

第3章が一番のドラマ。知的障がい者を会社の主役に置くことに疑念を感じていた現社長が、気づきを経て変化をし(Presensing)、多くの社員とともに会社の仕組みや事業をより強固なものにする。U理論でいうUの底、出現する未来から導く章といえる。

 

第4章は、会長のインタビュー。障がい者とともに働く意義に気づき、事業にしていくまさに結晶化(Crystallizing)の歴史。

 

第5章で、障がい者雇用第1期生の方の話しとなり、その描写が美しくて感動をおぼえた。53年間も日本理化学工業に勤め、働き手として今の会社を作ってきた(Prototyping)人。その人が今、会社を離れて一人の人として何を思うのかが記されることで、読み手は障がいを持つ人、老いる人、さまざまな人の多様な生き様を認め合うことを思い、本は終わる。

 

冒頭に僕が感じた読みにくさの理由は、すぐにわかる。

 

平面的に日本理化学工業を切り取るのではない、会社に関わる人たちを総合的に、さまざまな角度から描こうとする。そうすると、どこまで取材するか、それをどう伝えるか、伝え手としても手探りにならざるを得ないはず。読む者としても、話しの主体がばらばらだし、障がい者の方の家族のような周辺的な人の話しにもなるので戸惑わざるを得ない。

 

しかしだからこそ、第3章、4章の核心に迫るときに、知的障がい者という記号ではなくそれぞれの働く人とその家族の姿が想起され、一気にそれらが経営者の決意に収れんされていく効果があるのだと思う。

 

この本を、小松成美さんはどうやって書いたのだろう。日本理化学工業に関係する人たち、社内の人、その周辺の人、周辺の少し外にいる人まで取材をして、それをどう配置すれば読み手に伝わるのかを入念に構成したのかなと思う。

 

その取材力と構成力は本当にすごいなと思い、ただただ感服し、伝えるということの勉強にもなる。卓越した伝え手だから書けた本だと思う。

 

本の中身について。

 

一番劇的な場面は、第3章。経営者として奮闘するなかで知的障がい者雇用に疑念を感じていた大山隆久社長が、障がい者を主役にした会社経営の価値に気づく変化のくだりだった。

 

「明確な瞬間というのはありません。けれど、1年もすると心が整い、父が作った大河のような流れが、どれほど大切でありがたいものなのか、わかっていったのです。」「隆久さんは、それぞれの社員を知的障がい者とひとくくりにしていた自分を省みた。」「経営者として先頭に立ち、彼の思う改革に躍起だった隆久さんは、現場で社員たちと同じ時間を過ごすことで、小さな感動を積み重ねることになった。」

 

難しいことではない。だからこそ極めて難しいことかと思う。現場に身を置き続け、考え続け、感じ続けなければ変化はうまれない。

 

既成概念を手放して、出現する未来から学ぶ。そのためには現場で時間を過ごし、小さな感動・経験を積み重ねる。どんな人でも、特にリーダーであればなおのこと忘れてはいけない、しかし全くできていない人も多いことだと思い、心に刻むようにしたい。

 

もう一つ、大山泰弘会長の「五方一両得」という語。ここでは知的障がい者を主役として社会に必要とされる商品を送り出すことでの、国・会社・障がい者・その家族・福祉施設で働く人の五方に益をもたらすことをいっているが、この言葉は他でも使いたい。

 

三方よしという人は多い。しかしそこに人間とを取り巻く環境や未来のことまで含めれば、五方くらい考えなければ。これからはそういう時代だろう。それを表現する言葉があることを知って、勇気を得た。

 

この本が書かれた背景には、残念ながら相模原殺傷事件があるのだろう。本にもところどころに事件への言及がある。

 

いかに広範囲の取材とはいえ、本は日本理化学工業にゆかりのある人の話しに留まる。しかしそのさらに外には私たちがいる。チョークやキットパスを使ったことがあろうとなかろうと、私たちも日本理化学工業で働く知的障がい者の皆さんと一緒に、同じように個性をもって生きているのだ。そのことを忘れないこと、さらにできることなら皆さんと同じ時間をすごしていることを思い、小さな感動を積み重ねること、大山隆久社長のように。小松成美さんの最も伝えたいことは、そんな所にあるのではないかと思う。

 

障がい者だけではない。本の題名『虹色のチョーク』の虹色は、LGBTなどのセクシュアルマイノリティを想起させる。

 

障がいだろうがセクシュアリティだろうが他のことだろうが、世の中にはさまざまなマイノリティ性を持つ人たちがいる。というか、誰もが何らかのマイノリティ性=個性を持つ。

 

さまざまな個性と同じ時間を過ごし、それを強みに変えていく社会の美しさを描いたのが、『虹色のチョーク』だと思う。

 

最後に、この本を勧めてくれたのは、小松成美さんとも近しい我が変友 武田真由子氏である。動物看護などに取り組む彼女からは、人の多様性といって対象を人間に限り、犬や猫や兎を対象としないことは狭量と映るかもしれない。本当に、そうだ。

 

未来を望むとき、多様な人それぞれを想うだけでは足りない。動物たちも木々も土や水も想わなければいけないし、それができる時代なはず。そして、キットパスなどの日本理化学工業の商品はそこもかなえられている。

 

武田氏は、高知に移住してキットパスをもちいたグラフィックレコーディングを行ったりしているが、今度遊びにいったときには一緒にお絵かきでもしようかな、なんて思ったよ。

 

『虹色のチョーク』小松成美さん(幻冬舎)。

 

虹色のチョーク

虹色のチョーク

 

 

耽典籍:極薄ガンダリウムの上で踊る太って老いたハムレットについて。『人類は絶滅を逃れられるのか』(ダイヤモンド社)

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房総の先っぽまできて、『人類は絶滅を逃れられるのか』を読む。科学や人文学の碩学4人が「人類の未来は明るいか」について賛否に分かれて繰り広げたディベートの収録。

 

水掛け論的な展開があるので一人ひとりの論考には深い理解を選られないが、全体像を捉えるにはいい。ユーモアを忘れず遠慮なく相手を殴る大人な議論も楽しい。

 

思ったのが、我々は太ったハムレットとなっていき、足元の氷はより薄くしかし固くなっていく、ということ。

 

飢餓や貧困や病気の総量は、人類をあわせれば減り続けているし、大きな戦争も抑えられている。環境破壊も野放しではない。人類は不可逆的に豊かになっているということもできる。

 

一方で、世界があまりにも緊密になり過ぎたために、蟻の一穴が全的崩壊をもたらしかねなくなったというのも肯んずるところ。数千億の戦闘機より、数千円のドローンが怖い、みたいに。杞憂派は空を見上げるだけでは済まなくなった。

 

しかしそれで足元が脆くなったわけでもなく、やはり世界が密になることでのセキュリティやレジリエンスの強化を考えれば、薄氷のガンダリウム合金化も進んでいるのかもしれない。

 

そしていずれにせよ我々は苦悩をたしなむのであり、寿命100年お悩み3倍のハムレットにLife Shiftしていくだけともいえよう。

 

極薄ガンダリウムの上で踊る太って老いハムレット

 

歴史に精通するライフネットの出口さんが、人類史上悲観論が勝利を収めたことはない、ただし気候変動は危ういとおっしゃっていた。AIで社会課題に取り組む方は、活版印刷が人類を滅ぼすといわれた笑い話を引いていた。

 

判断は人の悪癖。楽観悲観なくニュートラルに、現在の視点ではなく未来から現在を振り返って、為すべきことをなすのが肝要かと改めて思う。

 

それがソーシャルアクション成功の秘訣かなとも。

 

『人類は絶滅を逃げられるのか』スティーブン・ピンカー、マルコム・グラッドウェル、マット・リドレー 他 (ダイヤモンド社)

「紅い木のうた」Eri Liao Trio

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台湾原住民タイヤル族出身で東大からコロンビア大学院に行き中退して帰国後ジャズシンガーとして活動中という、僕の同級生らしい謎キャリアのEri Liao(エリ リャオ)。

 

ついに、彼女のトリオのCD「紅い木のうた」(https://eriliao.jimdo.com/cd/)が発売されるので記念ライブへ。CD発売、本当に嬉しくて誇らしくて待ち遠しかった。

 

他の同級生とも顔を合わせる機会になって、嬉しい。

 

ライブは、なんかスゴかった。表現力が深まった・・というより独自の表現を確立しつつあるような。。日本語、英語、中国語だけでなくアミ語、プユマ語という台湾現地語もごちゃ混ぜにしながら(というかそっちを主軸にしながら)あらゆる歌とメロディーが奏でられるので、なんというか、なんだこりゃという不可思議なパワーのあるステージだった。

 

思ったのが、もうこの人ジャズシンガーじゃないな、と(いい意味で)。

 

ジャズの歌を瀟洒に歌うような表現の幅はとうに超えちゃってる。かといって民族音楽の歌い手でもない。台湾の部族の歌をたくさん歌っていても、過去の音楽としてではなく今の音楽として歌っているようだから。

 

声と音を通してなにかを表現していて、その届け方として様々な言語の歌という形があるのかな、と感じた。

 

ベースの小牧さんとギターのファルコンさんとのトリオは2015年8月からだそうだけど、結成しばらくの時に広尾であったライブに僕は行っている。その時は台湾部族の歌はあったかなかったかくらい。お洒落なジャズ中心で、曲のストーリーテリングがとても巧みだけど圧倒的なオリジナリティというのはまだないジャズシンガーだったと思う、いま思い返せば。

 

それが2年経って、こんなに唯一無二な表現性をもった歌い手になるなんて、ほんとすごい。

 

たぶんこの独自性は確立されたばかりくらいで、これからより磨かれたり深まったりするんだろうなと思うと、ますます楽しみです。というか、すごいなぁ、負けてられないなぁ・・と励まされた。

 

ライブ、ばりばりにギターを弾いてたファルコンさんも、飄々と見せ場を担っていた小牧さんもかっこよかったです。また行きます。CD(https://eriliao.jimdo.com/cd/)も宣伝します。

 

しかし、僕の周りにはこういう何とも定義しがたい出自やキャリアや表現や活動をしている人がやたら多いな・・とつくづく。

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耽典籍:読み書き企て夏休み。『チーズ・イン・コーベ』最果タヒ(Sunborn)

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今日から夏休み。


最果タヒ『チーズ・イン・コーベ』は夏休みを前にした大学生が、周りとのズレを抱えるちょっと困った同級生と、実家の神戸に一緒に行くことをついつい約束してしまう会話をえがく散文。異物であることを悪びれず引き受ける同級生の少しの寂しさと、満載のやれやれ感を少し楽しむ主人公のゆらぎ合いが優しく可笑しい。

 

夏休み、長駆の旅行計画を立てたけど体調不安がありキャンセル。都内を風来しながら、読み書き企てに費やす日々に変更。

何かお話しがある人はお声がけください。あと19日は誕生日なのでお祝いしたい人もお声がけください。

 

『チーズ・イン・コーベ』最果タヒ(Sunborn)。前半は日本語で、逆からは英語で同じ物語が書かれて、写真もたくさんの変わった本。

 

チーズ・イン・コーベ

チーズ・イン・コーベ

 

 

 

戦争について、20170806

戦争について。
小学生のとき、絵に描いたようなガキ大将がいた。江戸時代から続く染物(江戸小紋)職人の次男坊だった。
江戸っ子とは、彼によると三代にわたり江戸産まれでないと自称できないらしい。彼のお父さんは戦争のせいで疎開先の長野で産まれた。
「だからオレは江戸っ子じゃないんだよね」と口惜しそうに言った彼の顔を見て、ああ戦争はいけないんだ、と強く思った。
子供じみているけど、戦争を意識した最初の記憶。小学校2、3年生くらい。
ふと思い出した8月6日。

 

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