耽典籍:寛容であれ、そうすりゃ敵の評判は台無しだ。『内なる平和が世界を変える』シーラ・エルワージー(ディスカヴァー・トゥエンティワン)

年始に読む本というのは大事だけれど、今年は世界に向けてタフな実践を積んできた女性の本を併読した。一冊は、西水美恵子さんの『私たちの国づくりへ』(英治出版)。そしてもう一冊。

 

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『内なる平和が世界を変える』シーラ・エルワージー(ディスカヴァー・トゥエンティワン)。

 

ピース・ダイレクトで平和構築に尽力してきた著者が、未来を臨む世界の認識のあり方や関わり方を説いている本。U理論ぽいなっと思ったが、自己の内面の変革に重きが置かれ、内なる力を磨き、意識の跳躍があることを世界の課題を解決する糸口とするあたり、ジョセフ・ジャウォースキーの『シンクロニシティ』や『源泉』により近いかもしれない。

 

大江健三郎の本で、誰かがガンジーに「上空を飛ぶ爆撃機に皆で祈れば、爆弾は落ちてこないのか」と問い、ガンジーはそうだと答えたという一節がたしかあった。馬鹿にする人もいるだろうが、この本も同じことを科学的なことや経験を添えて書いている。真偽はともかく、ガンダムという神話を知る日本人には馴染みやすい考えだと思う。ニュータイプとか、サイコ・フィールドとか。

 

さておき、根底にあるのは世界は一つのつながりだという認識だと思う。

 

「歴史上初めて、人類は俯瞰する鳥の目を持った。どんなところに住んでいるのか、どういう生き物といっしょに住んでいるのかを見ることができるし、私たちの行動がこの故郷にどういう効果を及ぼしているのかも見え始めた」「現実は一つの全体だろいう直截的で本能的な自覚」

 

これは、僕がエシカルというものの捉え方とする「私と社会とが時間的空間的につながっている」という考え方に近しいと思う。私と世界は一つの全体を成しているのなら、私の内面に変革があることが世界の変革につながることは当然かもしれない。

 

本には、国際政治についてや金融やエネルギー政策について、女性性・男性性についてなど面白いトピックが載っているが、先人たちの塑像としてスーチーやティク・ナット・ハンが紹介されている章が面白かった。なかでもツツ大主教

 

「汝の敵を愛せ。そうすりゃ敵の評判は台無しだ」

 

というツツ大主教の風刺が記されおり、思わず膝を打った。「ツツが、拷問や虐待の被害者とその家族だけではなく、それをおこなった者に対しても理解を示したことに、世界中が驚いた。これこそ、思いやりの実践だった。トラウマに対処するには(そして罪の意識に対処するにも)、政権交代後に一連の魔女狩りや裁判をするよりもこの方が有効だと、彼にはわかっていたのだ」。

 

ダイバーシティを掲げたり、エシカルと口にしたりしながら、敵を定める人は多い。インクルーシブな社会を目指しているのに、マジョリティ顔をして旧態依然とする人たちに業を煮やして、そんな人たちを敵視してしまう。50歳台から上のおじさん達が標的となったりする。東京都議会にいるような。

 

「そんなおじさん達って、どうすれば変わるんでしょうねぇ」「いや、変わらないでしょう。早く退場してくれればいいのに」なんて会話が交わされるのを、何度も聞いた。悲しいことに。

 

ツツ大主教たちが面する敵と比して、笑っちゃうほどセコい敵の話しだが、寛容という観点からは同じだと思う。私と世界は一つの全体を成しているのだから、寛容を旨とする者は、敵を定めて自身の立ち位置をあきらかにする手法は避けるよう心掛けなければ。これから、敵との間に鉄条網を引くことが流行りそうな世界情勢であればなおさら。

 

「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」。否。不寛容に対しても寛容であれ、そうすりゃ敵の評判は台無しだ。2017年の世界がどうなろうと、信じる人たちとともに寛容でありたい。

 

内なる平和が世界を変える

内なる平和が世界を変える

 

 

なりたい自分から自由になること

「自由に生きる」というタイトルで、大学生に話しをするのだけど、僕は自由に生きているのか、自由に生きているように見えるのか、考えてしまう。


副題は、「~なりたい自分ってなんだろう~」。

https://www.facebook.com/events/208687552906511/

 

僕が自由であるのなら、それはなりたい自分から自由になったからじゃないかと思う。

 

なりたい自分になれなくて、僕は一度ダメになった。

 

大学を中退して社会から逃げた。でもその先で師と思う人に会い、なりたい自分から自由になって、いろいろなことができるようになった。

 

道というのは不思議なもので、手放したはずのなりたい自分に、最近は近づいている気が、する。

 

自由とは諦めることかもしれない。だけど手放すことで戻ってくるものがあることを、大人になれば知っている。

 

そんな話しを、してもいいのか、どこまでできるかわからないけど、13日に話します。

 

嬉しいのは、 EDAYA JAPANインターンの 河内 彩菜さんが企画をしていること。若い人を育てることが、EDAYAの在り方なのだとしたら、彼女はそれを体現してくれている。それに、 生田 真崇さんが作った場所で話せる。

 

Unreasonable Lab Japan同期の Masako Ikeharaさんと一緒なのも嬉しい。池原さんとは、自由に生きることと、美しく生きることの違いについて、話しをしてみたい。

https://www.facebook.com/events/208687552906511/

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みんなちっちゃな動物は、しっぽに弓をもっている。SOIF開催。

スナフキンの歌は不思議だ。

 

「みんなちっちゃな動物は しっぽに弓をもっている」。何故みんななんだろう、何故ちっちゃな動物なのかな、何故しっぽなのか、どうして弓なのか。よく分からないけど、何か大切なことを言っているようで、だから多くの人に印象深い。

 

ムーミン』はマージナルなものたちの物語だが、人の姿をし世故長けたスナフキンは、マジョリティとして生きることもできたかと思う。しかし知られた通りの孤高と彷徨で、マージナルの中でもマージナルな存在となった。そんなスナフキンが、小さなものたちを引き連れて歌う不思議な歌。

 

ダイバーシティの本質を感じる。マイノリティ、小さなものたちの声は、小さい。鋭い牙もない。でもみんな矜持を持っている。諦めない心もきっとある。正面から噛みつくことはできなくても、しっぽで弓を引き絞り、一矢が届くことを信じて射ることはできる。

 

マージナルの中でもマージナルなスナフキンは、そんな小さなものたちの矜持を知り、ともに歩み、か細い声を聴くことができる存在であり、代弁者といえる。「みんなちっちゃな動物は しっぽに弓をもっている」という歌は、小さなものたちの声と矜持を、敬意とともに代弁した歌だろう。

 

そんなことを、12月11日開催のSOIFの打合せをして考えていた。

https://www.facebook.com/events/1714060145585055/

 

社会活動に関わるいくつかの団体の代表に来てもらい、それぞれのチャレンジについて話してもらい、共感した団体へ寄付をする、寄付体験イベントSOIF。自分では取り組めない社会活動でも、プレーヤーの話しを聞いて、寄付などで関わることができれば、参加者は解決の道のりの一部となる。

 

久々の開催では、World Theater Project(NPO法人CATiC)教来石小織さん、NPO法人social change agency 横山北斗さん、NPO法人Collable 山田小百合さん、NPO法人tadaima 三木智有さん、NPO法人PIECES 小澤いぶきさんの5名に登壇をいただく。僕を含めたSOIFのメンバーが話しを聞きたいと思った団体をお呼びしており、特にテーマは設けていないのだけど、何となくやんわりとした共通項があるような気がする。

 

それは、小さなものに寄り添い、小さな声を聴こうとしているということ。スナフキンの耳と心を持つ人たち。

 

大きな声で、多数の人々に向かって訴えかけるビジネスプレゼンなどでは、こぼれ落ちてしまうような活動かもしれない。人はとかくマスに目を奪われ、桁数を重視する。でも小さなものと歩む活動を長く続けることは、とてもとても大事で、尊敬に値し、きっと社会の一隅を照らすチャレンジなのだ。

 

そんな丁寧な活動の話しを聞く場として、SOIFは適していると思う。12月11日は、「みんなちっちゃな動物は しっぽに弓をもっている」という歌を思いながら、どんなに素敵な弓の話しが聞けるのか楽しみ。

peatix.com

※ちなみに、スナフキンの歌はbowの誤訳で「弓」ではなく「リボン」だという説がある。それが本当かもしれないし、リボンも悪くない。でもなんか、しっぽに弓をもっている方が、詩があっていい。

 

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映画『ゲイビー・ベイビー』から思う、マイノリティ性を引き受けた人の美しさ。

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感動して、一人で観ていたなら泣いてしまっただろう映画『ゲイビー・ベイビー』。

 

人はみな、マイノリティ性を負っている。それぞれの困難に直面したとき、引き受けて、前を向く姿が、人の美しさだと思う。

 

同性カップルを親に持つ子供「ゲイビー」たちの日常と、小さな成長を追った映画。興味深いことに、映画で彼/彼女らが直面する困難は親が同性カップルだということではない。

 

病弱の弟を気遣いながら自分の夢へチャレンジしたり、学習障害に苦闘しながら異国へ転居したり、荒っぽい趣味に没頭して妹を巻き込んだり、宗教の捉え方で対立したり・・。親が同性カップルであろうとなかろうと直面する、人生のあれこれ。

 

幼さの残るゲイビーたちは、個々の困難から逃げず、悩みつつ自立した考えで立ち向かい、次のステップへと進む。その姿に感動する。何故そんなに人生と向き合えるのか、不思議に思う。まだ子供なのに。

 

ゲイビーであることの意味は、そこにあるのではないか。彼/彼女らは、映画以前に親が同性カップルであるということに直面し、それを引き受けて前を向く経験をしている。人生の葛藤を乗り越えたサバイバー。だからこそ、次の困難が来てもそれと向き合っていけるのではないか。

 

もう一つ。親たちも、子供と真摯に向き合い、対等に話しを聴き、対話している。素晴らしい親だ。同性愛者として生き、カップルとなり子供を持つというマイノリティ性を持つ親たちは、自分の人生経験から聴くことと対話することの大切さを知っているのだろう。マイノリティとして、聴いてもらえず、対話してもらえない経験もいっぱいしている人たちだと思うから。

 

『ゲイビー・ベイビー』は、マイノリティであることを引き受けている子供(と大人)が、新たな困難を引き受ける映画、といえるんじゃないか。人の美しさが顕れた映画だと思う。映像も、とても美しい。

 

胸が飽和して今一つ言葉にならないが、『ゲイビー・ベイビー』の子供たちに勇気づけられて、自分のマイノリティ性と向き合い、周囲の人と対話をして、引き受けていく人が増えるといいな。人の美しさが、もっと顕れるといいな、と思う。

 

そして、こんな映画を観せてくれるアーヤさんは凄いと、感謝。

www.youtube.com

 

備忘:20151113「しんとしたこころで」

2015年11月13日より。

 

今、一番聞きたい話。


メロンパンフェスティバルの“ひらめ”こと 平井 萌は、全右脳型人間であり、ビジョナリーすぎて素っ頓狂の極みであり、四次元に斜め上を行くような娘であり、要は抱腹絶倒の人だけど、深い悲しみを知っている人だと思う。

それは、人が生きる中での生老病死の悲しみ、という次元を超えて、より広く大きく時間と空間をとらえた、重く冥く冷たい、どうにもならないほど複雑な、逃れがたい悲しみを指す。

 

ひらめと話しをするのは、本当に楽しい。たくさん笑ってしまう。

 

そんなにたくさん笑えるのは、笑いの底に深い悲しみを湛えているから、それでも笑おうとしているから、だと思う。

 

絶望を知る者たちの笑いは、青い炎のように楽しい。

 

「世界で最も神さまに試練を与えられた国」に行ってきたという。そこでひらめがどのように物を見て(何を見て、ではなく)、どのように感じたのかを聞くことは、とても大切で、価値のあることだと思う。

 

イベントのTOP写真は、朝日か夕日に照らされた凪のような水面だった。センセーショナルにもできる話の内容を、静かで穏やかな写真で表現したひらめのこころを汲んで、しんとしたこころで話を聞こうと思う。

 

・・・とか言いながら、また笑えるんだろうなぁ・・・。

 

ぜひ聞きに来るべきです。

【フツーの女の子がエシカルビジネスを立ち上げるまで】

エシカルペイフォワード代表の 沼田 桜子さんが11月16日にオルタナSの自主ゼミに登壇します。

alternas.jp


演題は「エシカルビジネスの立ち上げ方」。昨年からエシカルファッション事業をはじめたいと構想を練り、今年4月にスタートして半年。走りつづけてきた沼田さんにふさわしいタイトルです。


ソーシャルビジネスで活躍する女性たちと比べると、沼田さんは(語弊のある呼び方だけど)「フツーの女の子」。そんな彼女が、仕事もがんばりながらどうやってエシカルペイフォワードを立ち上げ、引っ張ってきたのか。達成感や苦労話など等身大のストーリーを聞くことは、きっと多くの人の参考になり勇気を与えると思います。


沼田さんのソロ講演は初めてなので、貴重です。 池田 真隆さん有難うございます。残念ながら僕は参加できないけど、ご興味ある方はオルタナSにお申込みください。

学生よ、行動するな。映画『ポバティー・インク』から思う、その2.

映画『ポバティー・インク』を見て、「魚を与えるんじゃなく、魚の釣り方を教えるんです」と今更ドヤ顔で言われると腹が立つ、しょせんそれは「Why、How、What」のHowを伝えているに過ぎない。Whyを育てる試みをせねば、という文章を書いた。

tetsuji178.hatenablog.com

嬉しいことにその意を汲んでくれた若手がおり、自身で映画を見て、登場人物でもあるセネガルの起業家マガッテ・ウェイドさんにもお会いしてきたという。

 

感想をシェアしてくれたが、彼によるとマガッテ・ウェイドさんも僕と近しいことをお話しされていたそうで、社会活動の最前線の共鳴を感じて嬉しい。

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彼の文章から思ったこと。

 

マガッテ・ウェイドさんは、学生が現状を知らずに行動することの危うさを言い、まず勉強やリサーチをしっかりすることを勧めたという。肯ける。

 

若者に、行動をうながす声は多い。「いつやるの?」とかいって。しかし本当に何かを成したいと思うなら、まして世界を変えたいと願うなら、したたかに続けることが大事となる。10年続けて、やっとスタート。

 

行動を、という声にのって基礎体力もなく拙速にコトを起こしても、続くまい。粗い仕事をした挙句、巧言令色に踊らされて仕舞いになるのがオチ。

 

幸か不幸か、情報の多い時代である。ハデな活躍をする同世代のニュースが目に入る。羨みや焦りから、押っ取り刀で起業してしまう若者もいる。短いとはいっても人生はそれなりの長さなのだ、地力をつけてから勝負にでたほうがいいんじゃないかな、と思う。

 

賭けに例えれば、学び、経験を積むことは掛け金を蓄えること。行動する時はその掛け金をベットする時。掛け金をしっかり蓄えておけば、大きな勝負ができるはず。拙速な勝負では、小さな賭けしか行えまい。だから掛け金を蓄えることを恐れることはない。

 

雌伏ができなければ龍にはなれない。目先の瞬間風速だけを求めても、鎌イタチが関の山。社会にちょっぴり切り傷を与えたいのなら、それでもいいが。

 

という訳で、マガッテ・ウェイドさんの言葉のまた聞きから、「若者よ、行動するな」と言うことも大事だろうな、と思った次第。もちろん、それでもと言って覚悟を決めて行動をする若手もいる。その命がけの才知を見つけたなら、しょうがないなぁと言って力を貸すのは、大人の嗜み&楽しみだと思いもするけど。

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