みんなちっちゃな動物は、しっぽに弓をもっている。SOIF開催。

スナフキンの歌は不思議だ。

 

「みんなちっちゃな動物は しっぽに弓をもっている」。何故みんななんだろう、何故ちっちゃな動物なのかな、何故しっぽなのか、どうして弓なのか。よく分からないけど、何か大切なことを言っているようで、だから多くの人に印象深い。

 

ムーミン』はマージナルなものたちの物語だが、人の姿をし世故長けたスナフキンは、マジョリティとして生きることもできたかと思う。しかし知られた通りの孤高と彷徨で、マージナルの中でもマージナルな存在となった。そんなスナフキンが、小さなものたちを引き連れて歌う不思議な歌。

 

ダイバーシティの本質を感じる。マイノリティ、小さなものたちの声は、小さい。鋭い牙もない。でもみんな矜持を持っている。諦めない心もきっとある。正面から噛みつくことはできなくても、しっぽで弓を引き絞り、一矢が届くことを信じて射ることはできる。

 

マージナルの中でもマージナルなスナフキンは、そんな小さなものたちの矜持を知り、ともに歩み、か細い声を聴くことができる存在であり、代弁者といえる。「みんなちっちゃな動物は しっぽに弓をもっている」という歌は、小さなものたちの声と矜持を、敬意とともに代弁した歌だろう。

 

そんなことを、12月11日開催のSOIFの打合せをして考えていた。

https://www.facebook.com/events/1714060145585055/

 

社会活動に関わるいくつかの団体の代表に来てもらい、それぞれのチャレンジについて話してもらい、共感した団体へ寄付をする、寄付体験イベントSOIF。自分では取り組めない社会活動でも、プレーヤーの話しを聞いて、寄付などで関わることができれば、参加者は解決の道のりの一部となる。

 

久々の開催では、World Theater Project(NPO法人CATiC)教来石小織さん、NPO法人social change agency 横山北斗さん、NPO法人Collable 山田小百合さん、NPO法人tadaima 三木智有さん、NPO法人PIECES 小澤いぶきさんの5名に登壇をいただく。僕を含めたSOIFのメンバーが話しを聞きたいと思った団体をお呼びしており、特にテーマは設けていないのだけど、何となくやんわりとした共通項があるような気がする。

 

それは、小さなものに寄り添い、小さな声を聴こうとしているということ。スナフキンの耳と心を持つ人たち。

 

大きな声で、多数の人々に向かって訴えかけるビジネスプレゼンなどでは、こぼれ落ちてしまうような活動かもしれない。人はとかくマスに目を奪われ、桁数を重視する。でも小さなものと歩む活動を長く続けることは、とてもとても大事で、尊敬に値し、きっと社会の一隅を照らすチャレンジなのだ。

 

そんな丁寧な活動の話しを聞く場として、SOIFは適していると思う。12月11日は、「みんなちっちゃな動物は しっぽに弓をもっている」という歌を思いながら、どんなに素敵な弓の話しが聞けるのか楽しみ。

peatix.com

※ちなみに、スナフキンの歌はbowの誤訳で「弓」ではなく「リボン」だという説がある。それが本当かもしれないし、リボンも悪くない。でもなんか、しっぽに弓をもっている方が、詩があっていい。

 

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映画『ゲイビー・ベイビー』から思う、マイノリティ性を引き受けた人の美しさ。

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感動して、一人で観ていたなら泣いてしまっただろう映画『ゲイビー・ベイビー』。

 

人はみな、マイノリティ性を負っている。それぞれの困難に直面したとき、引き受けて、前を向く姿が、人の美しさだと思う。

 

同性カップルを親に持つ子供「ゲイビー」たちの日常と、小さな成長を追った映画。興味深いことに、映画で彼/彼女らが直面する困難は親が同性カップルだということではない。

 

病弱の弟を気遣いながら自分の夢へチャレンジしたり、学習障害に苦闘しながら異国へ転居したり、荒っぽい趣味に没頭して妹を巻き込んだり、宗教の捉え方で対立したり・・。親が同性カップルであろうとなかろうと直面する、人生のあれこれ。

 

幼さの残るゲイビーたちは、個々の困難から逃げず、悩みつつ自立した考えで立ち向かい、次のステップへと進む。その姿に感動する。何故そんなに人生と向き合えるのか、不思議に思う。まだ子供なのに。

 

ゲイビーであることの意味は、そこにあるのではないか。彼/彼女らは、映画以前に親が同性カップルであるということに直面し、それを引き受けて前を向く経験をしている。人生の葛藤を乗り越えたサバイバー。だからこそ、次の困難が来てもそれと向き合っていけるのではないか。

 

もう一つ。親たちも、子供と真摯に向き合い、対等に話しを聴き、対話している。素晴らしい親だ。同性愛者として生き、カップルとなり子供を持つというマイノリティ性を持つ親たちは、自分の人生経験から聴くことと対話することの大切さを知っているのだろう。マイノリティとして、聴いてもらえず、対話してもらえない経験もいっぱいしている人たちだと思うから。

 

『ゲイビー・ベイビー』は、マイノリティであることを引き受けている子供(と大人)が、新たな困難を引き受ける映画、といえるんじゃないか。人の美しさが顕れた映画だと思う。映像も、とても美しい。

 

胸が飽和して今一つ言葉にならないが、『ゲイビー・ベイビー』の子供たちに勇気づけられて、自分のマイノリティ性と向き合い、周囲の人と対話をして、引き受けていく人が増えるといいな。人の美しさが、もっと顕れるといいな、と思う。

 

そして、こんな映画を観せてくれるアーヤさんは凄いと、感謝。

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備忘:20151113「しんとしたこころで」

2015年11月13日より。

 

今、一番聞きたい話。


メロンパンフェスティバルの“ひらめ”こと 平井 萌は、全右脳型人間であり、ビジョナリーすぎて素っ頓狂の極みであり、四次元に斜め上を行くような娘であり、要は抱腹絶倒の人だけど、深い悲しみを知っている人だと思う。

それは、人が生きる中での生老病死の悲しみ、という次元を超えて、より広く大きく時間と空間をとらえた、重く冥く冷たい、どうにもならないほど複雑な、逃れがたい悲しみを指す。

 

ひらめと話しをするのは、本当に楽しい。たくさん笑ってしまう。

 

そんなにたくさん笑えるのは、笑いの底に深い悲しみを湛えているから、それでも笑おうとしているから、だと思う。

 

絶望を知る者たちの笑いは、青い炎のように楽しい。

 

「世界で最も神さまに試練を与えられた国」に行ってきたという。そこでひらめがどのように物を見て(何を見て、ではなく)、どのように感じたのかを聞くことは、とても大切で、価値のあることだと思う。

 

イベントのTOP写真は、朝日か夕日に照らされた凪のような水面だった。センセーショナルにもできる話の内容を、静かで穏やかな写真で表現したひらめのこころを汲んで、しんとしたこころで話を聞こうと思う。

 

・・・とか言いながら、また笑えるんだろうなぁ・・・。

 

ぜひ聞きに来るべきです。

【フツーの女の子がエシカルビジネスを立ち上げるまで】

エシカルペイフォワード代表の 沼田 桜子さんが11月16日にオルタナSの自主ゼミに登壇します。

alternas.jp


演題は「エシカルビジネスの立ち上げ方」。昨年からエシカルファッション事業をはじめたいと構想を練り、今年4月にスタートして半年。走りつづけてきた沼田さんにふさわしいタイトルです。


ソーシャルビジネスで活躍する女性たちと比べると、沼田さんは(語弊のある呼び方だけど)「フツーの女の子」。そんな彼女が、仕事もがんばりながらどうやってエシカルペイフォワードを立ち上げ、引っ張ってきたのか。達成感や苦労話など等身大のストーリーを聞くことは、きっと多くの人の参考になり勇気を与えると思います。


沼田さんのソロ講演は初めてなので、貴重です。 池田 真隆さん有難うございます。残念ながら僕は参加できないけど、ご興味ある方はオルタナSにお申込みください。

学生よ、行動するな。映画『ポバティー・インク』から思う、その2.

映画『ポバティー・インク』を見て、「魚を与えるんじゃなく、魚の釣り方を教えるんです」と今更ドヤ顔で言われると腹が立つ、しょせんそれは「Why、How、What」のHowを伝えているに過ぎない。Whyを育てる試みをせねば、という文章を書いた。

tetsuji178.hatenablog.com

嬉しいことにその意を汲んでくれた若手がおり、自身で映画を見て、登場人物でもあるセネガルの起業家マガッテ・ウェイドさんにもお会いしてきたという。

 

感想をシェアしてくれたが、彼によるとマガッテ・ウェイドさんも僕と近しいことをお話しされていたそうで、社会活動の最前線の共鳴を感じて嬉しい。

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彼の文章から思ったこと。

 

マガッテ・ウェイドさんは、学生が現状を知らずに行動することの危うさを言い、まず勉強やリサーチをしっかりすることを勧めたという。肯ける。

 

若者に、行動をうながす声は多い。「いつやるの?」とかいって。しかし本当に何かを成したいと思うなら、まして世界を変えたいと願うなら、したたかに続けることが大事となる。10年続けて、やっとスタート。

 

行動を、という声にのって基礎体力もなく拙速にコトを起こしても、続くまい。粗い仕事をした挙句、巧言令色に踊らされて仕舞いになるのがオチ。

 

幸か不幸か、情報の多い時代である。ハデな活躍をする同世代のニュースが目に入る。羨みや焦りから、押っ取り刀で起業してしまう若者もいる。短いとはいっても人生はそれなりの長さなのだ、地力をつけてから勝負にでたほうがいいんじゃないかな、と思う。

 

賭けに例えれば、学び、経験を積むことは掛け金を蓄えること。行動する時はその掛け金をベットする時。掛け金をしっかり蓄えておけば、大きな勝負ができるはず。拙速な勝負では、小さな賭けしか行えまい。だから掛け金を蓄えることを恐れることはない。

 

雌伏ができなければ龍にはなれない。目先の瞬間風速だけを求めても、鎌イタチが関の山。社会にちょっぴり切り傷を与えたいのなら、それでもいいが。

 

という訳で、マガッテ・ウェイドさんの言葉のまた聞きから、「若者よ、行動するな」と言うことも大事だろうな、と思った次第。もちろん、それでもと言って覚悟を決めて行動をする若手もいる。その命がけの才知を見つけたなら、しょうがないなぁと言って力を貸すのは、大人の嗜み&楽しみだと思いもするけど。

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水が流れるように仕事をする

jinjibu.jp

本業より。「男性の育児休職取得」について、ローソン人事企画部長 山口さんのインタビュー。


仕事で一度だけ泣いたことがあって、それはローソンを訪問した後の大崎駅でだった。 

 

2008年、コンビニのフランチャイジーに社員を紹介する事業を立ち上げて、NPOと協働した就労支援を行っていた。秋になり応募してくれる人が増えた。生活に困難を抱え、苦労している人たちだった。

 

事業が軌道に乗った気がして嬉しくて、懸命に推薦状を書いてローソンやファミリーマートに送った。

 

全員、不採用。「急に応募者が増えたので、今は採用しない」という理由だった。

 

何とかして人の力になりたかったのに、無力さが不甲斐なくて、ローソン訪問の帰り、JR大崎駅のコンコースで泣いてしまった。

 

大先輩のコンサルタントが慰めてくれた。「私も、つらいことはいっぱいありました。」とその人は言った。人事として、リストラを断行した経験のある人だった。

 

「水が流れるように仕事をしなさい。」

 

と言われた。いいですか稲葉さん、水が流れるようにです、と。

 

人の力になりたい、助けになりたいと思い入れ、のめり込み、クールさを失い、かえって混乱を生じさせていると、見抜かれていた。執着を捨て、淡々と仕事をすべきだった。

 

「水が流れるように」というのは、ソーシャルセクターに深くかかわるようになって、より意識するようになった。支援したいと力むことで空回り、傷つける人が増えることがある。

 

現場に、心が揺さぶられるような現場にいればこそ、静謐に、水が流れるように仕事をしなければならない。絶対零度の心を持たなければ、誰の力にもなれない。

 

熱い必要なんてない、淡々と、水が流れるように。

 

ローソンの帰り、大崎駅で泣いた数週間後、リーマンショックが起こった。

祝111位! 「ダチョウ倶楽部どうぞどうぞ」を貴女に/「国際ガールズ・デー」によせて

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日本では大量虐殺や、組織的レイプや、強制労働や、人身売買が行われている。Yes?No?

 

・・という問いに、断固としてYesと答える人は少なかろう。が、相次ぐ自殺や、無法サークルや、長時間労働や、JK産業などを思うに、断固としてNoと答えられる自信は僕にはない。むしろ、どちらかといえばYesと思う。日本ではある種の、大量虐殺や、組織的レイプや、強制労働や、人身売買が行われている、、かもしれない。

 

10月11日は「国際ガールズ・デー」。毎年、何らかのアクションに参加しているが、今年はプランインターナショナルさんのイベントに顔を出してきた。最近エシカルファッションがらみで近しいルワンダから活動家の方がいらしゃるので実情を聞きたかったのと、東大の安冨歩教授の講演を聞きたかった。

 

講演内容は記事などにまとまっている。ふんだんなユーモアに示唆と警告とアジテーションを混ぜたお話しだった。

wotopi.jp

 

最も膝を打ったのは、「ルワンダには、虐殺の跡が残り、レイプなどの暴力もなくなったわけではない。日本にはそういった明白な暴力は少ない。でもルワンダジェンダー・ギャップ指数6位、日本は101位(その時点で)。何故か?」「それだけ日本では女性差別が、暴力が隠蔽されて日常化している」という指摘。

 

 内面化され、見えない制度としてこびりついてしまっている悪意・差別ほどやっかいなものはない。それは、生活のはしばしに放射性物質のように飛び散って、社会を、我々を蝕む。

 

日本には見える暴力はごく少ない。しかし内面化されこびりついた見えない何かによって、日々ある種の大量虐殺や、組織的レイプや、強制労働や、人身売買が、小さく、延々と行われている。

 

その後数日、めでたくも日本はジェンダー・ギャップ指数111位となった。2015年から2016年という1年を見ても、女性活躍という空砲音はけたたましいものの、うんざりするようなことが多く、10位後退もむべなるかな、と思う。

 

内面化されこびりついた見えない何かを解消するには、どうすればいいか。

 

とても衝撃的なことがあった。

 

NPO法人マタハラNetさんの研修に参加した折のこと。40名くらいの参加者がおり、各テーブル5,6名が着席した。テーブルでワークをやることになり、誰か一人がファシリテーター(テーブルリーダー)をやってください、と指示があった。ワークが終わって、発表も終わって、お疲れ様でした、さてでは各テーブルでファシリテーターをやった方は手を挙げてくださいと言われた。

 

手を挙げたのは、全員男性(僕含む)。

 

何が衝撃かというと、その研修に参加した男性は7名程で、各テーブルに1人くらい。マタハラNetさんの研修に来る男性なので、旧態依然とした価値観の持ち主ではない。女性もアクティブな方ばかりで、リーダーとして仕事をする方も多い。

 

なのに、お互いよく知らない状況下でファシリテーターを選ぶとなると、男性が「じゃあ僕が・・」とか言って、女性陣が「お願いします・・」とか言っちゃう。

 

内面化されこびりついた見えない何かによって、みんな行動がプログラミングされて、ついつい男性を選出してしまったんだと思う。各テーブルでファシリテーターをやった方、と言われて手を挙げて全員男性だった時、僕はすごく恥ずかしかった。すごくすごく悔しいというか、こりゃマズいと思った。

 

教育学では、ヒドゥンカリキュラムというものを習う。チャイムが鳴ったら席に着く、とか。明示されないけど隠された教育。集団で代表者を選ぶときは、とりあえず男性を選ぶんですよ、というのもヒドゥンカリキュラムに含まれてきたことだろう。

 

このヒドゥンカリキュラムはぶち壊したい。ヒドゥンカリキュラムによって洗脳されてきた我々の、内面化されこびりついた見えない何かを洗濯したい。

 

思うのは、ダチョウ倶楽部の「どうぞどうぞ」。

 

ヒドゥンカリキュラムによって、女性は口火を切りにくい、男性もついつい「じゃあ僕が・・」とやってしまう。しょうがない。でもその後、女性も「じゃあ私も・・」とやって、周りは「どうぞどうぞ」と彼女に譲る。

 

茶番だけど、そんなことをやり続けないと111位はどうにもならないよ。ひねくれたアファーマティブアクションだけど、実践し続けてみたら面白いかな、、と思ってやってみたいと思う。

 

というわけで、111位を更新しないために、ダチョウ倶楽部どうぞどうぞを是非。

 

最後に、勝部元気さんのtweetで知ったけど10年前の日本のジェンダー・ギャップ指数は79位。順調に順位は下落しているけど、指数自体は微増している。要は、日本はほぼなーーんもやってこなかった間に他国にガンガン抜かれているということになる。

 

絶対、男性のせいだと思うんですよね。男性が自分たちの生き方を見直すことなく、旧態依然とした価値観と体制に安住してきて、女性の社会進出応援してるよ、とか言いながら全く他人事だと思っている。女性陣勝手に頑張ってね、と思ってる。で、弊社は女性活躍応援企業ですとかダイバーシティとか言いながら、自らが変わらないといけないと気付かず、お題目だけ掲げて、目立つHPとかには男性(あえておっさんとは言わんが)ばかりが雁首そろえる。

 

111位を恥じる男性がどれだけいるか。111位が解消することで、自分の生き方にも良いことがあると思う男性がどれだけいるか。

 

そこをどうにかしないと。行き止まりまできているんだから。